うつくしく整ったシステムキッチン、は、実に残念な状態だった。
美しいのは一見すればで、少し注意を払えば、そこには埃が積もっていたし、シンクに水垢でさえも見当たらないのはここの水道すら使わないということだろうか?
冷蔵庫の中にはミネラルウォーター、缶ビール、干からびたチーズ、封の切られたクラッカー、あとはわずかばかりの調味料。バルサミコ酢なんてはいってる。そのくせ基本的な調味料のしょうゆとか砂糖なんてなくて辛うじて小瓶に入った塩があった。本当に何故なのか分からないけれど、酢とか塩なんて冷蔵庫に入れてどうするのさ。何で冷蔵庫にいれているんだろう。あ、味噌だけは大量にあった。
大体三本セットのぴかぴかの包丁がシンク下にしまわれていたけれど、まな板らしきものはない。それからおたまとフライ返しが壁にかかっていたけれど、鍋もフライパンも見当たらない。何の為にそこの壁に掛かった二本はあるんだろう。
本当にここは寝に帰っているだけなんだ。そうわかる暮らしぶりがここから伺える。
おんなのひとの影とか気配とかそんなのがあったらどうしようと、思ったりしながら、ここに来た。食器棚の片隅に、かわいいペアカップがあったらどうしようとか、ほんとくだらないことを考えながら来たのだ。
きっかけは些細なことだった。
あの大事件のあと、健二のおこぼれのように(あの人たちはそんな言い方しないけど)陣内の人たちとの付き合いが始まった。当然のように誘われる季節の行事、送られてくる生鮮食品。それはどれもこれも新鮮な体験で、送られ来る食品は美味かった。旬のものを旬の時に食べると、今まで俺の食ってきたものは一体なんだったのか、と思うことがある。きゅうりとかトマトとか、味が濃い。まあ贅沢を言わせてもらえれば、量は、もうちょっと少なくてもいいんだけど……。
そんな大量な物資を、と申し訳なく思い、少し遠慮をみせた時に「親戚中の何処にも送っているの遠慮せずに、むしろ欲しかったらもっと送るわよ」とすごい勢いで説き伏せられて現状に至る。その折彼女の弟の話が出たのだ。送っても送っても殆ど手付かずで腐らせる弟のことを彼女は大層憤慨していた。
それもポーズだと分かっているけれど。
彼は忙しい人で何日も家を空けることがあると聞いた。自炊などしている暇もないのだろう。それを分かっていても送るのは、送ったあとどんなに時間が経っても彼は実家に連絡を入れるからなのだと、前回訪れた時に彼女は困ったように笑って零していた。近しくない俺にだから吐き出せる事もあるのかもしれないと思った。危険な仕事に就いているのだから心配しないわけがない。
だから、差しいれしましょうか、なんて言ってみた。届けてもらったものを調理して、それを差しいれしてついでに様子もみて、なんて。
勿論下心もあった。
まさかとかそんなとか色々悩んでみた末に出た結論は、どうやら俺は、親ほど歳の離れた人を好きなのだと言う事だった。自覚してみてもどうこうなりたいと思うこともなく(だって当たり前だどうなりようもない)、だけど、少しだけ欲が沸いた。
少しだけ、家族みたいな立ち位置にいられるようになるのではないかと。本当に望むものはそんなものではなかったけれど、叶うわけがないから少しだけでも側に居られたら。そんな事を考えて、迷惑になるかもしれないけれど、大義名分を手に入れて、理一さんの家に押しかけたのだ。
理一さんは嫌な顔ひとつしないで迎え入れてくれたけど、本当の所はどう思っているかなんてわからない。けれど、彼の家族に無茶を言われたのだろうと、恐縮されて、罪悪感が湧き上がった。俺はそれを利用しているだけなのに。
せめて、美味いものを作って、少しだけこの人の側に居られる時間をもらえる対価に換えようと、様々な野菜の下ごしらえに取り掛かった。
などということを懐かしく思い出しながら、煮込んだスープをかき混ぜながら味を調える。
胃袋を掴む、というのは男の俺がやっても有効なようで、あの時の俺が思いもしなかった未来が今ここにある。
子供のように、キッチンで立ち働く俺の後ろを着いて回るような人だとは思わなかった。
何が出来るのかとか、器に盛ったサラダからトマトをつまみ食いするとか、ほんと何処の子供かと思う。嬉しそうに俺にも差し出して、食べろと口元まで持ってくるところも。……そんなところも好きだけど。
出来たばかりのスープを味見と称して、雛鳥よろしく後を付いて回る人の口にスプーン諸共突っ込んだ。勿論適温に冷まして。
一瞬だけ見張られた瞳は直ぐに弧を描いて俺の手からスプーンを奪う。僅かなそれを飲み下す喉仏の動きに、目が奪われる。そんなところばかりは子供のようだとは言えない。
ちくしょう。こんな些細な動きにさえ反応してしまう自分を罵った。
分かってやってる子供みたいにずるい大人に、悔しいからスプーンを奪って変わりにキスしてやった。
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