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May I love you belatedly?

 今日のチャットを終えたのが三十分前で、その間に出たため息はもう数え切れない。
 健二はパソコン画面の右下を見て時刻を確認すると、もうずっと先が進まないままになっていた論文を切り上げて電源を落とした。背もたれに体重を預け、腕を伸ばして脚をすり合わせる。背骨が小さな音を立てて、どこかすっきりした身体を椅子の上で抱え込み、丸くなった。靴下を履いていても冷えてしまう爪先を両手で包み込んで揉んでみたけれど、指先も冷えてるのだ。健二はまた溜め息を吐いた。

「明日…何着ていこう…。」

 論文よりも頭の中を占めていたその問題は中々答えが出ないままだ。健二は膝に額を擦り付けて、クローゼットと箪笥の中を必死に思い浮かべた。
 普段、健二は服装に頓着のあるほうではない。出かける場所が研究室と自宅、たまに佐久間と一緒に安い居酒屋に行く位のものだから、正直何か着ていればそれでいいと思っている。
 しかし、明日はそういうわけには行かないのだ。
 黒くなったパソコン画面に映る自分の顔を見る。口許は膝で隠れてしまっているが、健二の眉はすっかり下がっていて今にも泣きそうだ。意識して難しい顔を作り、目元に力を入れる。しかしそれもすぐにへこたれて、崩れた顔を脚の間に埋もれさせた。
 さっきまで話していた彼の声を思い出す。
 彼が日本を離れたのはもう三年も前の事で、高校卒業と同時だった。それまでは年に数回は直接会いチャットも頻繁にしていたのに、時差と距離の関係でそれも難しくなると、交流は時間を気にしないメールが主となった。
 朝起きて最初にする事はメールをチェックする事。受信フォルダを開いて彼の名前を確認すると、途端にやる気が身体中に広がるのだ。彼も頑張っていると思うと、うかうかしていられないと気が引き締まる。彼に対して恥ずかしい自分では居たくなかった。 
 しかし、そのやり取りも今日で最後だ。彼はもうじき飛行機に乗るだろう。彼が日本に帰ってくる。健二は胸の内に溜まっていた息をゆったりと吐き出した。
 三年間、直接声を聞いたのは数える程しかない。…だからかもしれない。落ち着いた喋り方と健二よりも低い声を聞くたびに、健二はそわそわして落ち着かない気持ちになった。けれどチャット終了間際に挨拶を交わす瞬間、落ち着かなかったのが嘘のように健二の身体を襲うのは言葉に出来ない寂しさ。健二は、そわそわしながらも彼と居る事を心地よく思っていた事をその時に強く感じ、得体の知れない胸
の痛みと引き換えに、またね、と声を紡いだ。
 目を閉じて耽っている間に瞼は重くなり、健二は大きな欠伸を漏らした。机の横にあるベッドにそのまま移動して、ずるずると居心地の良い場所を求めて息を吐く。
 彼が…。佳主馬が、帰ってくる。
 声や映像だけではない。これからは手の届く場所に居るのだと思うと爪先すら暖かく感じられた。枕に顔を埋める。ゆっくりと息を吐く。胸が震えるほど、緊張していた。




 椅子に腰掛け、真っ白いテーブルクロスの下で健二は拳を握り締める。耳に届く音楽は優しい弦楽器の音色。控えめに、しかし確かに心地よい空間を作り出していた。何度もテーブルの上に視線を走らせ、多くある食器の役割をひねり出す。
 フォークとナイフは外側から。これが水用のグラス、あれはアルコール用のグラス。ナフキンは首にかけるの…?脚にかけるだけ…?
 健二はテーブルに釘付けていた視線を恐る恐る正面に移した。目の前の佳主馬は極自然にスーツを身に纏い、これも自然な態度でギャルソンに声をかけている。
 健二はジャケットを羽織ってきているものの、本来ならこの店に入れないであろう事は分かっていた。この店にあるものは例え花一輪であっても値が張るに違いない。しかし、その場違いさに呻くことも出来ないほど、健二は緊張していた。
 物腰の柔らかそうな笑顔と態度でその場を後にするギャルソンの後姿をぼんやりと眺めた健二に、佳主馬がすまなそうな声を出す。

「もう少しラフな店にすれば良かったね。ごめん。」
「う、ううん!!こっちこそ、ごめんね!僕、こんな凄いところ初めてで緊張するけど嫌じゃないよ!寧ろいい人生経験だよね!味わって食べる!もう来れないかも知れないしね。」

 健二はそこまで一息で言い終わると、息を切らしながら笑いかけた。へらりとした笑いをやめて伺うように佳主馬を見遣る。健二は驚いた。佳主馬が、凄く真剣な眼で健二を見ていたのだ。酸素不足で激しく動く心臓が、違う動きで跳ねた。どうしたのだろうか、そんな表情を見るのは初めてかもしれない…。

「佳主馬くん?」
「また、連れてくるよ。いつでも。」

 佳主馬はとても優しく笑う。その、いつでもという声の低さとうっとりとした熱を含む言い方に当てられて顔が赤くなるのを自覚した。
 今日の佳主馬は何かが違う。いや、前からこんな風だっただろうか。三年の月日に数えるほどの音声でのやり取りでは、覚えていられるものがとても少ないように思えた。記憶の中の佳主馬を思い出そうとするのに靄が掛かったように曖昧で、改めて三年の長さを実感する。
 そう、佳主馬は随分と大人になった。立ち振る舞いや喋り方、それら全てが洗練されていて、気付くとつい彼を見つめてしまっている。目が合って、心臓が跳ねて、目を逸らす寸前に笑いかけてくる佳主馬を直視できない。どうしてあんな風に笑いかけてくるのかが分からず、そうされる度に騒ぎ立てる胸は苦しく絞られていく。
 佳主馬が白ワインの注がれたグラスを手に持ちその場にかざす。健二は半ばつられるようにグラスを持ち上げて佳主馬の言葉を待った。

「健二さん、…ただいま。」
「お、おかえり!…なさい。」

 掲げるだけの乾杯は、どこか厳かな雰囲気を二人にもたらした。緩やかに笑みを作る佳主馬と、歓迎の言葉すらつかえてしまう自分。健二はまた赤い顔を俯かせる。佳主馬はそんな健二に気付かないのか、涼しい顔で皿上のナフキンを取るとその脚に乗せた。迷いは無い。この雰囲気にも臆していない雰囲気を感じ取り、健二は顔を逸らした。
 健二の方が年上の筈なのに、もうそんな差はとっくに無くなっており、寧ろ佳主馬の方が余程大人に見える。痺れる頭の内側からころり、と思考が零れだす。
 僕は、ここに場違いなだけでなく、彼に不釣合いなんだ。
 そう思えば今まで以上にこの空間に違和感を持つ。馴染みの無い音楽、穏やかに談笑する着飾ったマダム、あんなに穏やかに見えたギャルソンの笑顔も、ただ能面を貼り付けただけのようだ。ぎこちない仕草で腿にナフキンをかける。手はそのままそこで拳をつくり、真っ白なナフキンに大きな皺を刻んだ。

「映画、面白かったね。」

 ワイングラスに視線を落としている佳主馬が、手首を返してグラスを回す。それに合わせて踊る液体は、光を屈折させてキラキラと輝いていた。
 健二は声が出ない。佳主馬に相槌を打ちたいのに、それが出来ない。頭の中は真っ白で、佳主馬の言う映画の内容が何一つ思い出せないのだ。間を持たせる為にワインを口にする。味がしない。口の中に広がるのは渋みだけ。
 焦りが心の中に渦巻いて、今何をするべきなのか見つからない。この場所が落ち着かない。ワインなんて口に合わない。佳主馬との会話さえ見失ってしまった。
 答えない健二を気にする事もなくワインを飲む佳主馬の喉がゆっくりと動く。健二には、喉仏が上がるまでを見れる余裕も無かった。視界が滲む。膝にかけられたナフキンに水滴がぱたぱたと零れて、健二は慌てて席を立った。ぼやける視界でトイレを探す。はき捨てる様に退席の意を告げると行き先が見つからないにもかかわらず足早に進んだ。
 こんなみっともない自分を佳主馬に見られたくない。誰にも見られたくない。しかし勘のいい佳主馬の事だ、健二の異常をあっさり見抜いて追ってくるかもしれない。佳主馬はそういう人間だった。強い心と人を気遣う優しさ、強い瞳に柔らかな眼差し。健二がどんな振る舞いをしても優しく見守って健二の言葉を待ってくれた。それが健二の知っている佳主馬だ。
 健二はふらつきながらも後ろを振り返る。佳主馬は、変わらずあの席に座っている。その視線に、健二は入っていない。健二の馴染めない世界に、佳主馬は当たり前のように馴染み過ごしている。
 これが三年かと思った。彼の世界は広がり、元々凄かった才能をさらに伸ばし、今や手の届かない所へと行ってしまった…。
 心が急速に冷えて、固まる。歩いた先にあった壁へぶつかって、その衝撃で一瞬息が詰まった。苦しい、悲しい、遠い。呼吸の変わりに涙が零れる。それは靴の先、綺麗に磨かれた大理石の床の一点に到達し、そこからじわじわと円形に溶けて黒い模様を広げて行く。どんどん広がる円が健二の靴の半分まで来て、ようやくそれが穴だと気付いた。
 ただ、気付いた時には健二はもうバランスを崩していて、既にその真っ暗な穴へと滑り落ちた後だ。もうどうしようもない。強く眼を瞑る。身体の中心が縮まる感覚と、同時に自由落下の風を受けて腰から頭へぞわぞわした気持ち悪さが這う。息はまだ出来ないままだ。苦しい。怖い。底の見えない真っ暗な穴を健二は成す術もなく落ちていく。苦しい。息を吸いたい。このまま死んでしまうのかもしれない。そう思うと、健二の心の中は息を吸えない事も先の見えない穴に落ちる事も忘れて、ただ一人への思いだけがふくらんだ。
 君に、会いたい。話したい。僕は、君に――。
 弾かれたように健二の瞼は開き、うつぶせ寝で枕に埋もれていた顔をクロールのように上げて大きく息を吸った。肩で大きく息を吸い込んで携帯電話を開く。アラームが鳴る、一分前だった。
「さいあく…。」
 それでも健二はゆったりと息を吐いて笑った。最悪だったのは夢の方だと目尻の水滴を拭うけれど、いつまでも煩く響く心臓の音に不安は拭いきれない。手の中で響くアラームに体が跳ねた。
 支度を始めなくては。もうすぐ佳主馬に会えるのだ。それは嬉しさと同時に、多大な緊張をもたらした。
 



 待ち合わせ場所にいた佳主馬の姿に、安心から溜め息が零れた。ダブルジッパーの黒いパーカーにワインレッドのインナー、細身のカーゴパンツといったカジュアルな格好。片手に携帯を持ち、鞄は持っていない。恐らくは財布がポケットにあるだけだ。
 もしもの事態に備えて黒のジャケットを羽織ってきた健二も、ジーンズに焦げ茶色のTシャツ、生成りのコットンシャツという自身の服装を気にしなくてもいいのだと気分が楽になると小走りで佳主馬の元に寄った。何せここは人が多い。待ち合わせ相手を探すのも苦労する空間で、突然目の前に現れた健二に少し驚いた様子に、健二は悪戯が成功したような気になって笑った。
 久しぶりだね、と声をかけると佳主馬は柔らかく笑い、そうだね、と返してくれる。健二はその優しい表情と声に一瞬泣きそうになった自分に苦笑する。
 佳主馬はまた少し背が伸びたのか、健二は完全に顎をあげて彼を見上げた。

「健二さん、今日は一日時間あるの?」
「うん、大丈夫だよ。」

 頷いて見せると、佳主馬の顔が嬉しそうに崩される。小さな声でやった、と喜ぶ姿に健二の不安は完全に溶けて消え、代わりに暖かなもので心が満たされるのが分かる。

「じゃあ、買い物とか付き合ってくれる?」

 少し伺うように健二に視線を合わせた佳主馬の柔らかな懇願を乗せた声。健二は二つ返事で頷くと佳主馬の横に並び、行こうかと促した。


 佳主馬の買い物は主に洋服や日用品といったものばかりだった。雑貨屋のビルを一階から五階まで回って必要なものをカゴに入れていく。その品物を見て、これから日本で佳主馬が暮らすのだと思う健二の歩調は軽い。

「住む所は決まってるの?」
「ううん、まだ決めてない。当分はホテルかな。いくつか候補はあるんだけど、決定的な決め手がまだ…。」
「そっか。そうだよね。」
「健二さんは今の所、どれくらい住んでるんだっけ?」
「僕…?えーと…七年くらい、かなぁ?わぁ…そう考えると結構住んでるね。」
「引越しとか考えないの?」
「うーん、お金ないしね。」

 健二の答えに、佳主馬は考えるようにして頷いた。
 一握りの人の、更に一握りしか栄光がないような世界に身を投じている事を不安に思い何かと言う人もいるけれど。佳主馬がそれに関して何かを言ったりした事は無かった。彼は、健二にとって数学が酸素と同じ様なものだと分かっていてくれる。無言の容認ほど心地良いものは無い。

「佳主馬くんはちゃんとした所に住めそうだねぇ。」

 自分のアパートがちゃんとした所でない訳ではないが、六畳ワンルーム、バス・トイレ一緒なんて物件を佳主馬が選ぶとは思えない。

「…うーん。そうだね…。」

 らしくなく言葉を濁した佳主馬は持っていたカゴを掲げて見せると、会計してくるね、と告げてレジへ向かった。健二は、その背中を眺める。そして、スラリとした手足、しなやかな体躯と整った容姿を持ち合わせる彼に集る視線の熱さに気付いた。女の子が色めき立っているのが分かる。男の健二でさえ目が行くのだから、当たり前だろう。
 佳主馬はその中を気にする様子もなく進んでいく。この雰囲気を気にしていないのか慣れてしまったのか、健二には分からない。ただ、男としての焦りは微塵も無く寧ろ誇らしささえあった。このフロアにいる人間がどれだけ彼を眺めようと焦がれようと、彼が反応を返してくれるのは自分だけだ。笑顔で話してくれるのは、自分だけだ。

「ただいま。…健二さん?」

 突然目の前に現れた佳主馬の姿に、健二は弾かれ背筋が伸びる。少しだけ屈んだ佳主馬の視線は長い前髪を通して真っ直ぐに健二を見てくる。
 息が、止まるかと思った。
 
「あ、…おかえり。」

 慌てて言葉を付け足すと、佳主馬は満足そうに笑う。それに同じく笑い返した所でさっきまでの自分の思い上がりに気付き、今度は血の気が引いた。
 佳主馬が親しい人間以外と簡単に言葉を交わさない事は知っている。だからと言って、まるで自分が特別であるかのように思うだなんておかしい事だ。そのおかしな感覚を嬉しいと思ってしまった自分は、…何なのだろう。
 今日は、おかしい。いや、今日じゃない。昨日からかもしれない。いや、あぁ、あの夢が悪いのだ。
 目が覚めて感じたのは安堵と恐怖。
 彼の世界に健二は入れず、健二が居なくても彼は悠々と過ごしていける。佳主馬がその気になれば簡単にあの世界が構築されるのだ。どうして今まで気付かなかったのか。佳主馬は、あまりにも有望すぎる。数学を研究しているだけのしがない自分では、そこには辿り着けない。ありありと見せ付けられたそれが夢で良かったと思えたのは、あの瞬間、求めるだけ酸素を取り込んでいた間だけだ。頭が冴えれば嫌でも考えてしまう。
 それでも、実際の佳主馬の笑顔はとても温かい。自分達の間には何も違いが無いと思わせてくれる温もりと体現した表情。それらは今も健二の中にあるじっとりとした影の部分を忘れさせてくれる力を持っている。沢山の人が彼を見つめる中で、彼からの温もりを貰えるのが自分だけという事はとても誇れるように思えたのだ。

「…どうしたの、健二さん。疲れた?ごめん。」

 気遣う佳主馬の声は優しく耳に馴染み、健二はそれが心地よくて口許を引き上げる。緩く首を振って大丈夫だと言えば、佳主馬もまた笑って歩き出した。健二より先を歩く姿は、背筋が伸びて足取りもしっかりとしている。佳主馬の背中を見るのが好きだと思った。二人が同じ道を歩いている事が、はっきりと分かるから。 
 佳主馬が振り返る。健二を見つけて、不思議そうに首を傾げた。歩くのを止め、健二がそこへ来るのを待っている。優しい眼差しに見つめられながら、健二は佳主馬の隣へ並ぶ。佳主馬の隣には、じめじめした影なんてどこにも無かった。



「付き合って貰ったお礼だから、今日は奢らせて。」

 肩を竦めて佳主馬が笑う。二人の目の前にある店は、小洒落た外装の和食料理店だ。過度な装飾がされていない店構えは好感が持てる。ただ、奢りと言われた以上は金額が気になってしまうのは仕方ない事だと思う。いつも佐久間と行くような店とは全く違うのだ。
 佳主馬の笑顔に素直に笑顔を返せない健二は何度か店と彼を見比べて、次に財布の中身を思い浮かべた。今日は何も買い物をしていない。諭吉二人を財布に忍ばせた今朝を思い出して健二は頷いた。
 ふと、入り口脇に立つ健二たちの横を大学生らしきグループが通り抜けて店のドアを引いた。がやがやと賑やかに話し合いながら、最後の一人が店の中へと消えていく。健二は横目で彼らの姿を追いながら、その格好に内心首を傾げた。とてもラフな格好で、失礼だがお金持ち大学の生徒には見えない。ジーンズ、パーカー、スニーカー。女の子の服の値段は良く分からないけれど…。
 健二は視線を佳主馬に戻して、ハッとした。健二の心を見透かしたようにこちらを見て口許を吊り上げる佳主馬と視線が合う。佳主馬はもう一度柔らかな笑みを浮かべ、奢らせてくれる?と、優しい声で尋ねてくる。唸りながらも頷いた健二に、佳主馬はドアを開けて嬉しそうに笑った。
 店内は落ち着いた照明と、各グループが個室に案内される仕組みになっているところで、人気があるというのも納得できる雰囲気だった。喧騒はあるものの、誰がどこで騒いでいるのかは分からない。
 二人もまた個室に通され、向かい合うように座る。すると、佳主馬が流れるような動作で品書きを手に取り、当たり前のように健二に見やすいようにと広げてくれた。その気配りは実に自然で嫌味も無ければ無理も無い、佳主馬らしいとすら思えるものだ。健二は素直に品書きに目を通し、その値段に安堵した。その時、突然正面から小さく噴出された笑い声に、健二は視線を投げた。佳主馬が優しく目尻を下げて笑っているのが見えて、首を傾げる。

「今、値段見て安心したでしょ?」
「な!…んで、わかるの?」

 勢い良く顔を上げて佳主馬を真っ直ぐに見る。それは、本当に穏やかな笑顔。健二は言葉が喉に詰まるのを感じて、さらにそれが胸の辺りにまでずっしりと下がってくるような気がした。
 佳主馬はとても穏やかに笑っている。本来なら同じ様に微笑み返せばいい筈なのに、何故だか健二は泣きたくなってしまう。何か見えない大きなものに包まれているよう。佳主馬がとても大きな存在に思えて、とても遠い所に居るように感じるのだ。まさか、これも夢なのだろうか?ざわざわする胸の内の居心地の悪さに、健二は汗の滲んだ掌を強く握り締めた。
 暫く互いを見合って、佳主馬が先に視線を落とした。品書きの上を滑らせる佳主馬の指を、健二も見つめる。深爪気味の、長い指。
 
「健二さんの事なら、何だって分かるよ。」

 深い声音だった。無意識に目で追っていた指先が視界から消えてしまう。健二はゆっくりと顔を上げて、今聞こえた台詞を反芻した。声も深かったのに、そう言って健二を見る佳主馬の瞳もまた深い色をしていた。

「え、…えぇ?」

 出た声は、喉に張り付いた情けない音。佳主馬が笑う。さっきとは全く違う、苦笑交じりの笑顔に健二は目を逸らした。胸の中を、今は全然関係ない筈の懐かしさが襲う。そして、それが佳主馬が高校生だった頃、良く見ていた表情だと思い出した。

「健二さん、お酒飲む?」
「え…、あ、ううん。今日はいいや。」
「俺は飲もうかな。」
「あ、うん、…いいよ。」
「健二さんは何にする?」
「え、えと…烏龍茶にしようかな。」
「わかった。」

 品書きに目を落とす佳主馬の顔は、前髪に遮られて伺う事は出来なかった。唐突な会話に違和感を覚えてどもる健二に、対する佳主馬はいつも通りのように見える。…いや、見えるだけだ。
 店員が注文を聞いて、それらが席に届くまで、二人の間に会話は無かった。無理して話を捻り出さなくてはいけない間柄ではない。会話は無くとも空間を維持する事はできる。今までならば、そう考えてこの空気を何とも思わなかったかもしれない。しかし、健二は気付いてしまった。これは、ただの気の置けない空間とは違う。
 佳主馬は、慣れている。普段通りの会話を投げた後、仲の良さでしか作れない沈黙を隠れ蓑にする事に。
 健二の掌が汗で湿る。しかし健二には何も言えなかった。何を言えばいいのか、分からない。親指が何度も掌を往復して緊張の痕を馴染ませていく。個室の前で大きな声が掛かった。続いて明るい笑顔の店員が姿を現すと、会話の無い二人を特に気にした様子も無くまた明るい声で退席する。健二は店員に軽く会釈して、卓上の烏龍茶を手に取った。その冷たさに指先が一瞬躊躇する。
 突然、健二の視界にグラスが入り込んできた。予想していなかった事に明らかに肩を跳ねさせた健二を、佳主馬が笑う。

「乾杯してくれないの?」

 わざと拗ねたような声と言い方に、健二はとても驚いて、思わず笑みを零した。佳主馬は嬉しそうにグラスを掲げている。勘違いだったのだろうか?さっきまでの雰囲気はもう消えていて、小さく息を吐いた途端に身体から余計な力が抜けた。あの夢とは違う事にゆったりとした気持ちでグラスを持ち上げて、充足感と満足感からくるだらしない笑いを口許に浮かべた。

「佳主馬くん、お帰りなさい。」
「うん。…ただいま。」

 無機質な高い音が二人の間に響く。健二は冷たい烏龍茶を少しだけ口に含み、正面にいる佳主馬をこっそり伺う。グラスをぼんやりと眺め、目を伏せ気味にしている表情はいつもの勝気な色が影を潜め、どこか寂しそうにも見えた。
 健二の鼓動が、一拍早く身体中を駆け巡る。
 今日一日を過ごして佳主馬が三年前と変わっていない事に安心していたけれど、実際はそうではなかった。変わらない部分もある。けれど、確かに三年の日々は二人の間に流れていて、それはこんな風にふとした瞬間に二人の間に割り込んでくる。少なくとも以前はこんな表情を見たことは無かった。妙に大人びた憂いを含んだ表情に、佳主馬の男の部分を垣間見た気がする。…それはまるで秘密を覗いたような気分にさせた。
 出会った時から大人びた子供だった。強気な瞳は健二よりも世間を知っていて、自尊心も意識も能力も、健二の知っている同年代の誰よりも抜きん出ていた。しかし彼は今、大人びた子供から、確かに大人へと成長していた。

「佳主馬くん、変わったね。」

 思わず口から出ていた言葉だった。手の中のグラスが急に重くなって、健二は我に返ったけれどもう遅い。佳主馬の瞳が、僅かに驚いた色を乗せて健二を直視していた。

「そう?…自分じゃよくわかんないけど。」
「ごめん、違う、いい方にだからね!あ、でも、そんな言う程変わったわけじゃないよ!ただ、・・・なんとなく、そう思っただけ…なんだ。」
「…変われたのかな。」

 佳主馬の声は少し低く落とされ、自嘲しているように見える表情が、次の瞬間には健二を正面から見据えていた。佳主馬が、何かを訴えているような気がする。やはりさっきの雰囲気は、勘違いでは無かったのだろう。けれど、佳主馬がどうしてそんな雰囲気を纏うのか、健二には分からない。不思議な空気に押されて烏龍茶を一口含む。喉を通る冷たい感覚は胃に消えて、グラスの中で氷が鳴った。
 
「俺はね、弱虫で意気地無しなんだよ、健二さん。」

 知ってた?と悲しそうに笑う佳主馬を、驚いたまま見つめ返した。
 佳主馬が弱虫で意気地無しだなんて、いったいどの口が言うのだろう?小さい頃から圧倒的な力でOZの王に君臨していた彼を、健二は知っている。健二よりもずっと早くに自分の力で稼いでた事も。大人とのやり取りも、駆け引きも、教えてもらったのは健二のほうだ。それに。それに、日本を出て力を試す行動力もあるじゃないか。健二はいつも、その背中を見ていた。自分より小さかった背中が、自分よりも大きくなって世界に羽ばたいていくまで、ずっと。置いて行かれた寂しさを感じながら、彼とのメールにすがり付いていた今も、ずっと。
 
「佳主馬くんは、立派だよ。」
「そんな事ないよ。」

 居心地の悪い考えを振り払うように、健二は少しだけ口調を強くして佳主馬に向き合った。ドキドキと強く脈打つ鼓動をもねじ伏せるようにしたいのに、すぐに否定した佳主馬の声にそれは叶わなかった。しかし、続けられた発言で、煩いと感じていた鼓動も気にならなくなる。寧ろ、混乱から頭が真っ白になった。

「俺はね、海外に逃げたんだ。」
 
 言葉の割りにとても穏やかな笑みを浮かべた佳主馬が、目を伏せてグラスに口をつける。傾けられたグラスがテーブルに戻る途中に灯りが氷に反射して、健二は一瞬の眩しさに目を細めた。

「一言、聞けばいいだけなのに。それが凄く怖くて、それでも俺を見る視線の優しさにどんどんのめり込んで行った。俺の気持ちはもうずっと変わらなかったし、これからもずっと変わることなんて無いと思う。それは自信がある。はっきり言える。」

 何についてなのか、佳主馬は言わない。しかし何かを匂わせながら自分を真っ直ぐに見つめながら語る佳主馬の視線から目が離せなくて、健二は手の中のグラスを力を込めて握り締めた。

「一緒に過ごしてる人によって、感じる雰囲気って変わってくるでしょ?居心地がいいとか、悪いとか、甘えられてるとか、頼られてるとか、・・・好かれてるとか。」

 最後の言葉に小さく反応した身体がグラスの中から烏龍茶を跳ねさせた。僅かに零れた液体がテーブルの上に模様を作る。緊張に強張っている指をそうとは悟られたくなくてその模様を引き伸ばし線を引くけれど、表面張力によって液体はすぐにまた集ってしまう。指の先が濡れただけ。心にも身体にも水の様な柔軟性は齎されない。
――佳主馬くんには、好きな人がいたんだ。
 どきどきと響く音はとっくに胸から範囲を広げて頭の中にまで侵食していた。たった今の最後の言葉から導かれた答えを想像した途端、居心地の悪さが呼吸を奪う。そんな話は始めて聞いた。いつから?高校生も中学生も、過去の佳主馬を思い返しても健二にはその片鱗すら見つけられない。いつから?誰を?今も?気付かなかった。近くにいた筈なのに、誰かを好きだなんて、知らなかった。
 
「自惚れてもいいんだって思えるくらい、明らかな違いがあるのに中々気付いてくれなくて・・・。きっと俺が大好き過ぎて、俺が初めからそんな態度だったから、二人の間の空気を当たり前に思われていたのかも知れないね。」

 柔らかな笑い声が零れ、健二は佳主馬が今どんな顔でこの甘い溜め息を吐いたのかが気になった。こっそりと、その顔を伺う。健二の前髪の向こうで上目遣いになった瞳には、とても幸せそうな微笑みを浮かべた佳主馬が映った。
 頭を、殴られた気がした。
 蕩ける、と形容してもいいような表情。過去をさかのぼっても、健二の記憶の中の佳主馬には無い表情。それはきっと佳主馬が大切に思う一人を浮かべて出たものだ。

「今思えば、そんなの大した事じゃないのに。当時の俺はもう余裕が無くてさ。ガキだから進め方も分からなくて。勝手に辛い、辛いって。息も出来ないくらい好きなのに、好かれてる事は分かってるのに、どうしたらいいのかが分からなくて。・・・逃げたんだ。少しだけ、距離を取れば相手がその気持ちは特別だって気付いてくれるかも知れないって。」

 馬鹿だね、と言って佳主馬がグラスを傾ける。健二は何か相槌を打たなくてはと思っていても何も言葉が出ない状態に困惑した。理由は分かっている。今、佳主馬が話してくれている内容が、とてもショックだから。
 佳主馬には昔から好きな人がいる。話の内容からすれば相手も佳主馬の事が好きらしい。・・・当たり前だ。佳主馬を好きにならない人間なんてきっといない。十三歳で初めて出会ってから、あの強い瞳も高いプライドも家族を大切に思う優しい心も、ずっと傍で見てきた。ぶっきらぼうから柔らかにと、徐々に変わって行った彼の物言いは健二の耳に心地よく馴染んで胸に暖かい感覚を与えてくれた。彼の母親が「懐いた」と言ってくれたのを実感できるくらいに仲が良かったと思えるのに。・・・そんな表情は、見た事が無かった。
 健二は友達だから、友達には見せない表情なのだろう。「佳主馬くん」ではなく「池沢佳主馬」の表情。少し前に感じた、男の部分だとでも言えばいいのか。
 気持ち悪い疼きが背中を這う感覚に、髪の先まで粟立って身体を震わせた。健二の握るグラスには、水滴が滲んでいた。力を込めれば手の中を滑ってしまいそうだ。あぁ、困ったな。そう思い、お絞りに手を伸ばした瞬間。限界になっていた涙が簡単に零れた。視界がクリアになるのと少しぼやけるのを交互に繰り返して、健二はその涙を気付かれないように深く俯いた。
 佳主馬は静かに、噛み締めるように話を続ける。もう止めて欲しいと思っているのに、彼の声は健二の耳に馴染む為に出来ているのか、聞き流す事が出来ない。
 日本を出てから、会えない距離を苦しく思った。声が聞きたいと思うのに、それすら出来ない事が辛かった。唯一の手段になったメールの到着を心待ちにしていた。それら全て、健二だって同じ様に思っていたのに。
 思考がぐちゃぐちゃのまま泣いている健二を佳主馬が気付かない筈はない。これは、正夢なのだろうか。泣く健二を放っておく佳主馬。辛い。佳主馬はどうして自分を見てくれないのか、理不尽な怒りさえ浮かんでしまう。
 どうしてこんなに涙が出るのか、自分で自分が良く分からない。佳主馬に好きな人がいた事がどうしてこんなに悲しいのかも良く分からない。よく分からない癖に鈍い痛みだけはどんどん生んでいく胸の辺りをついに鷲掴んで、健二は頭を振ってしまった。

「健二さん。もう少し、付き合って。・・・泣かせてごめん。」

 佳主馬の声がすぐ隣から聞こえて、健二は反射的に顔を右側に向けた。胸をきつく握り込む右手に、佳主馬が自身の手を被せて親指で優しく撫でる。いつの間に移動したのだろうか、健二の隣に座りなおした佳主馬はとても優しい眼差しで健二を見つめていた。
 涙の零れる瞳に映る、困ったような、はにかんだような、苦しそうな、判断のし辛い表情。健二はその大きな手から伝わる温もりに守られているかのように、ゆっくりと頷いた。とても辛くて、聞きたくないと思っているのに、聞かなくてはいけないと思わせる佳主馬は、酷い。

「高校までの俺が踏ん切りつけなかったのは、確実に幸せにしてあげる自信も実績も何も持っていなかったからだって気付いた。」

 佳主馬の右手は健二の右手を優しく慰めてくれる。佳主馬の左手は、健二の背中に添えられて温もりを分けていた。健二は、情けない位にぐちゃぐちゃになった顔を隠す事無く、隣に座る佳主馬を正面に見据え、ただ彼の話を聞く。
 短時間で日本に帰れるように毎日努力した佳主馬を尊敬する。独立した時の糧になるよう、コネクションを増やした佳主馬を強かで彼らしいと思う。

「毎日、一通ずつ送りあうメールに支えられて過ごすのも、今日で終わりだ。」

 そう締めた佳主馬が改めて健二の方へと身体を向けるのを見て、健二も思わず向き直る。脚が触れ合う距離で見詰め合う空気に、泣きすぎて酸素不足気味の脳が悲鳴をあげた。繰り返す呼吸すら震える。緊張する。空気が変わったと、肌で感じた。

「健二さん。俺ね、一生ものの仕事に就けたし、収入もまぁいい方だと思う。自分以外の誰かの人生を受け止められるだけの用意は出来たつもり。」
「・・・う、ん?」
「だから、漸く言える。」

 佳主馬の両手が、大人しく腿の上に落とされていた健二の両手を拾い上げて包み込んだ。健二はその流れを静かに目で追って、包み込まれた両手が佳主馬の温もりに引き摺られる様に温かくなるのを感じる。
 柔らかいのに強い、懐かしいと思える佳主馬の視線が健二を射抜く。心臓はどきどきと落ち着かないのに、この距離も触れ合う両手も温もりも。無意識に安心を感じ取っていた。
 佳主馬が僅かに唇を開く。吸い込む呼吸の流れが、ゆっくりと、まるでスローモーションの様に健二の目には見えた。

「健二さん、好き。大好き。あの夏から、あの日から、ずっと。ずっと、健二さんだけを見て過ごしてきた。」

 かちり、と僅かな音が頭の中に響いた。数学に集中している隙間を縫って聞こえる、真夜中を指す時計の針のような正確さ。健二は呼吸を忘れていた。一瞬息を吐いて、慌しく呼吸を繰り返す。佳主馬の優しい眼差しと目を合わせたまま、会話も無く、息が落ち着くまでたっぷりと見詰め合って。少しだけ止まっていた涙が、再び頬の上を滑る。けれど、今度は恥ずかしい気持ちなど微塵も沸かず、健二は震える胸と身体を懸命に堪えて、唇を噛み締めた。
 あぁ、だから。初めに浮かんだのはその言葉。
 あぁ、なんだ。辛くて仕方なかった佳主馬の話が全てくすぐったいものに変わる。
 会いたい。声が聞きたい。離れるのを寂しく思う。彼に見て欲しい。他の誰も見て欲しくない。会うだけで緊張してしまう。会えたら高揚してしまう。彼の夢を見る。不安に駆られる。安心する。心から溢れている彼への感情は、簡単な答えを示し続けていたのに・・・。
 揺らぐ瞳を見ているだけで健二の思考を読み取ったのか、ただじっと待っていた佳主馬が緩やかに口角を上げた。健二の事ならなんでも分かると言った彼の言葉を思い出す。何一つ見逃すものかと言われているような感覚を心地よく思い、佳主馬の真剣さをはっきりと受け止めると同時に、健二の中でもう何年も燻り続けていた佳主馬への感情に漸く名前を見つけられた。 
 健二の両手を片手に託した佳主馬が、もう片方の暖かな掌を濡れる頬に滑らせた。骨ばった親指は見た目とは程遠い優しさで健二の目尻をなぞり、飲み込まれそうな程強い引力を持った瞳が健二だけを映している。

「俺は一生分の恋を健二さんにしたから。…だから、そろそろ愛してもいい?」

 涙が溢れる瞳は、距離が近付く佳主馬を受け入れて閉じられた。同時に唇に触れる柔らかな感触に、閉じて張り付いた睫毛の隙間から温かい涙が流れていく。
 今更過ぎて、とても好きだなんて言えないから。
 言わなくても伝わるように。ゆっくりと離された唇の隙間を埋める為、健二は僅かに背筋を伸ばした。



「ねぇ、明日、不動産会社に付き合ってくれない?」
「・・・いいけど。まだ物件決まってないんじゃなかったの?」
「たった今、決定的な決め手が揃ったんだ。」

 佳主馬の長い指は健二を指して。二人は楽しそうに、笑った。





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