愛を蒔くひと
蛍が飛んでいる。
「わあ、凄いねえ」
にこにこと笑み崩れる彼を失わない様に、佳主馬はその薄い掌をしっかりと握り込む。暑い最中とて気にもならない。気になるのは、唯、
(熱い……)
その掌の、感覚だけだ。
愛を蒔くひと
長野の本家は、何処よりも増して自然がありのままに存在している。それは一族の誰もが当たり前の様に知り、そして甘受するものであったけれど、此処に一人の例外が発生していた。
「え、これ?」
そう言って、土だけ入った鉢植えを手に持つのは健二だ。
「そう、それ」
佳主馬は簡潔に答え、その日に焼けた手に大きなサインペンを握り込んで健二に向けた。キュポっといい音を鳴らして蓋を取り、改めて彼に渡すと、ことりとその細い首が傾ぐ。
「名前を書く」
「え、はい!」
落とさんばかりの慌て様で、健二はきゅるきゅると鉢植えに『小磯健二』と書き記した。角張った文字の上、佳主馬が同じく『小磯健二』と汚い字(少年なんて、得てしてそんなものだ)で記した白い札を土に挿して、どうやら完成であるらしい。
「終了。はい、これからこれが健二さんの鉢ね」
「えと、えと?」
「うち、夏の間此処に皆集まって来るでしょ? だから、その間に子供達がこうして鉢に朝顔植えて、各々で観察して日記付ける訳。夏休みの宿題対策。あと、おばあちゃんが好きだったしね」
言いながら、佳主馬は己の鉢をくるくると健二に見せた。鉢に書かれた『いけざわかずま』の名はもう随分と褪せて、ようやっと判別出来る程度に擦れている。
「今年はもう終わりだけど、これ取っといてもらうから。だから来年から使うんだよ。健二さんが来る頃には間に合う様に、植えてもらっておくからね」
当たり前の様に言うそれに、健二は目を瞬かせた。
「何、その顔」
「え、いや、その! えと、来年?」
「来年。来ない予定とか言う気?」
やるよ? と佳主馬は言い、その拳をぎゅっと脇で握る。スクリューを付けて捻り込む気満々のそれに、健二は青くなって首を横に振った。
「き、来ても、いいのかな」
「いいに決まってんでしょ。第一、それ出してきたの万理子おばさんだからね。決定済みじゃん」
「そう、かぁ……」
聞くなり、健二はほんにゃりとだらしなく口元を弛ませて、手元にある鉢をじっと眺めている。佳主馬はその様をじっと見つめ、そうして少しだけ口元を引き上げた。
それ以後、健二は都合さえ付けばという前提の元、一族に混じって本家にやって来る様になった。夏、そして冬と、年追う毎に当然という空気を醸し出す健二に佳主馬は笑う。
「健二さん、もう随分平然と家族だね」
当初、それこそ言われるがままに慌てて鉢を手にしていたのが嘘の様だ。からかう佳主馬に、健二は言葉はなく只笑うばかり。
「佳主馬君が構ってくれるからね」
その言葉の通り、佳主馬はこの本家で会う以外にも仕事だ遊びだと健二と交流を重ねていた。それこそ、佐久間と並んで健二の大の親友と言えるだろう程に。
「ふふ、これからも、嫌だっても構うから」
「お手柔らかに」
二人は笑って鉢を手に取る。それぞれの鉢はその年月に相応しく、色が褪せ、けれどしっかりとした佇まいを残していた。
朝顔は、その年毎に色を変えている。それに初めて健二が気付いたのは、ようやっと片手に足る程の年月が過ぎてからだ。
健二はその様にぽっかりと大口を開いて、それから困った様に笑っていた。全く自分は駄目だよなぁと。佳主馬は「それでこそ健二さんでしょ」と笑い、朝顔に水を差す。
朝顔を一番気に掛けているのは本家住まいの理香だ。そう佳主馬が教えてやると、健二は翌年理香にこっそりと小さな贈り物を用意していた。
「家族なんだから、そんな事気にしなくていいのよ!」
呆れ顔の理香に頭を小突かれ、健二は困った様に笑う。それでも理香は礼を言い、その贈り物を戴いた。それから健二は専ら、東京で限定のスイーツだ足だとよい様に使われている。
「うん、気にしない様にって逆に扱き使ってくれて、助かるよ」
「まぁ、そういう考え方もある」
けらけらと笑う健二は幾つ歳を重ねても変化がなく、まるで少年の様な細さだ。十代も終わり掛け、すっかり男じみた佳主馬はまるでそれとは正反対に変わり続けているというのに。
とまれ、その小さな、健二が一所懸命に見繕ったのであろう香水が大事そうに理香の鏡台に置かれている事を、佳主馬は知っている。
健二は優しい男だ。とても、優しい男だ。
とても優しい男だからーー、佳主馬は、只黙って彼の隣に居る事だけを選んだのだーー。
*
そうこうして既に幾年か。
(僕も何というか、気が長い……)
改めてそんな事を思ってみた佳主馬はとうの昔に成人し、今は地元と東京を行き来しながらの生活を送っている。今日も今日とて仕事の打ち合わせ、その後に健二を引き連れて毎年恒例の長野参りに趣く予定だ。名古屋で別れた家族には散々に健二君健二君と彼の名ばかりを聞かされた。もしや健二の方が好かれているのではと思い、それ以上にそんな状況もまんざらでない己に、佳主馬は諦めの吐息を吐くより他の術を知らない。
佳主馬の全てはすっかり健二で構築されていると言っても過言ではない。
あの夏から既に十余年を過ぎ、佳主馬は既に四半世紀を生きている。それでも、佳主馬には健二が切り離せない。全ての事象に健二が必要で、健二の存在が為に佳主馬は動き続けている。それを、健二が知らずとも。
それでもいい。佳主馬の存在を、恋情で知覚してくれなくてもいいのだ。佳主馬の存在を根っこのところで知覚して、そうして離せなくなってくれれば。恋でなく、愛でなくてもいい。唯、其処に在る事を当たり前と思って欲しい。
それが佳主馬の愛だった。健二への恋慕を自覚した瞬間に全てを決めて受け入れた、それは佳主馬の中の、たった一つの形。
「健二さん」
午後、小さな土産袋を片手に、佳主馬は東京駅で彼の人を迎えた。片手を上げる佳主馬の元へ、健二は大きな荷物を小脇に真っ赤な顔をして走り寄って来る。仕事の為ぱりっとスーツを着ていた佳主馬とはまるで対照的に、健二は普段よりは綺麗だが移動中にだろうよれてしまったシャツにパンツの、これといって特徴のない格好をしている。二人が並べばその違いは顕著だろうが、そんな事は構うべき問題ではない。
「ごめんね、待たせたかな」
「ううん、そんなんでもない」
「もっと早く連絡出来たらよかったんだけどねえ」
教授がねぇと愚痴る健二は、今や大学で准教授の身だ。勤め人に向かないだろうと研究を勧めていたのは周囲も同じ事だった様で、健二は大学の数年でスムーズにその道へと進んで行った。お陰様で益々のもやし、いや白さで、長野に行く度に皆に笑われている。
「じゃあ行こうか!」
ぶん、とまるで子供の様に腕を振る健二に、佳主馬は苦笑しながら新幹線のチケットを手渡す。健二に対する世話焼きは、佳主馬の楽しみだ。
「とりあえずこれ。あと、現地に着いたらちょっと寄り道するからね」
「寄り道?」
「素敵な寄り道? かも?」
「それは楽しみだ」
何処かなと笑われ、それは秘密と人差し指で口を閉ざす。「車内でこのお土産を食べようね」と口にした後で。
最近外にも満足に出られなかったと言う健二は、確かに疲れていたのだろう。佳主馬から分けられた名古屋土産で口を綻ばせ、腹を満たした後は緩やかに寝息を吐いてしまった。気付けば長野入りを果たしており、本人が肩を落としたのは言うまでもない。
「ほら、こっち」
駅前からタクシーで暫く、佳主馬の運転で入り込んだのは陣内本家とは別方向の鬱蒼とした森の中だ。途中で車を降り、ざくざくと雑草を掻き分けて佳主馬は只管に進んで行く。
「わ」
「大丈夫?」
「平気、ちょっと足が嵌った。で、此処何処?」
きょろきょろと辺りを見回す健二は既に三十路とも思われぬ若々しさだ。その所作にくすりと笑いを漏らしつつ、片手を差し出した佳主馬は空いたもう片手で先を指差した。
「ほら」
その先には、小さな小川がある。首を傾げながら手を引かれ、足を運んだ健二は一拍後、大仰な程に声を張り上げ掛けーー、口元を覆った。
其処はすっかり蛍の楽園だった。遠目から零れる光は町の灯りだと思っていた、と呟きながら、健二は未だに口元を押さえている。
「大丈夫?」
「や、叫んじゃいそうで、そしたら蛍居なくなりそうで」
けらけらと笑いながら、佳主馬は己の革靴を見た。昔は運動靴だったし、ハーフパンツだった。自分も随分成長したものだと、何だか感慨深い。
「平気だよ」
「そう? それにしても……わあ、凄いねえ。たまに本家の池でちらちらしてる事はあったけど、こんなにいっぱい初めて見たよ……」
「凄いでしょう? 僕は昔師匠に連れて来てもらったんだ。最近はやっぱり開発とかで居なくなってて、来てなかったんだんだけどね」
「今年は偶々?」
「師匠が連絡くれてね」
携帯を振り振り言う佳主馬は、「師匠と僕以外知らないんだからね。内緒だよ」とそっと呟く。これで、三人だと。
にこやかに笑む佳主馬の顔をじっと見つめた健二は、ぼりぼりと頭を掻き、徐に隣に立った。繋いだ手も相俟って、その距離はひどく近い。
「健二さん、疲れてるみたいだからさ。だから連れて来てみた」
「うん」
「いいでしょ?」
「うん……」
大様に健二は頷く。普段からおっとりした彼だが、その様が何だかおかしくて佳主馬は瞬きして傍らを見た。健二はじっと蛍の群れを見ている。
「ねえ、佳主馬君」
「うん?」
「僕、佳主馬君の事好きだなぁ」
「うん、知ってるよ。僕もだしね」
「違うくって」
ぎゅうっと繋がれた手を握って、健二は前を向いたまま言った。
「一生さ、隣に居てくれるのが佳主馬君ならいいなぁって話だよ」
佳主馬は微動だにせずその話を聞く。唯顕著に違うのは、その見開かれた双眸だ。
「……って、こんな事、僕みたいなおじさんに言われても難だよねー」
「そんな事ないよ!」
熱い掌を握り返し、佳主馬は静かな辺りの空気を一掃する様に吼える。蛍は宣言通り、ちらとも消えない。
「ていうか僕はずっとそう思ってたよ! もうずっと好きだってね! 死ぬまで抱えてずっと健二さんの傍に居てやろうと思ってたのに! どうして今言うかな!」
「え、今思ったので」
「今かよおおおおおおおおおおおおお」
ぐわわわわっと髪を掻き回して悶絶する佳主馬にちょっと引き気味で、健二は恐る恐る呟いた。
「え、結局僕どうしたらいいの?」
「付き合って下さい!」
がっと繋がった手を引いて、佳主馬は健二の腰を抱いた。あの夏のイメージとまるで変化のない、薄い健二の身体。只それが異なるのは、熱を持つ生身の身体である事だ。
「夢みたいだ、まさかこんな事になるなんて……。僕、今一体幾つになったと思ってるの……」
「僕もいい歳だよ」
「健二さんは色々遅いよ!」
「耳元で叫ばないで!」
佳主馬が色んな想いを込めて猫の仔にやる様に頬擦りをしてやると、健二はぎゃあぎゃあ喚きながら身を引いた。けれどその頬は嫌悪でなく羞恥の為に赤いだけなので、ちょっと螺子が飛んでしまった佳主馬には全く効き目がない。
「健二さん、早く本家行こう!」
「全くだよ! ちょっと僕等こんなとこで何してるの!」
「そんで早く帰ろう!」
「何で!」
「早く東京行って健二さんちでいちゃつく!」
「却下ー! 却下却下ー! 僕は本家で朝顔の世話があります!」
「種貰って東京でやんなよ!」
「やだ! 僕は長野で朝顔を見ます馬鹿ー!」
再びぎゃーっと喚いた健二は闇雲に、しかし町の方向へ向かって走って行く。それを追い掛けて佳主馬の姿も即座に森の中に消えて行った。残されたのはちらほらと光の残滓を落とす、蛍の群ればかりである。
*
結局、それからの二人は恋人にはなったものの然して変わる事のない日々を過ごしていた。
「だって僕、いい歳だし」
がっつくと思う? と佐久間に向かって首を傾げる健二の後ろで、佳主馬は溜息混じりに首を横に振る。知らぬは本人ばかりというヤツの様で、主に哀れまれるのは佳主馬の役目らしい。
「でも、佳主馬君が僕を見ててくれてよかったな」
椅子を回して振り向き、にっこりと笑った健二に佳主馬も問い返す。
「どうして?」
「だって僕が佳主馬君の事好きって自覚して、どうにかなったと思う? だって僕だよ? 佳主馬君の気が長くてよかったよ」
変に自覚があるらしい彼にそう言われ、佳主馬はまるで芝居の様に肩を落として答えた。
「何言ってんの健二さん、僕の事何だと思ってるのさ」
「え、佳主馬君」
「そうそう、キングな佳主馬君ですよ? 健二さんの事見落とすなんてある訳がないじゃない」
何をどうしたって健二さんを見初めたし、健二さんにくっ付いてるから安心して。振り向いてくれなくても、ずっと健二さんを見ているさ。
途端佐久間は指で耳栓をし、健二はほんのり頬を染めた。それを認め、益々にっこりと笑顔で佳主馬は告げる。それはとてもとても大切な事なので一度しか言わない。一度聞いてもらえれば充分だろう。
「いつ何処に居たってさ、僕は健二さんに種を蒔くよ。僕を好きになってって、ずっとずっと、愛の種をね」
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