有明の月を
家に帰り着いたのは、やはり日付が変わってからだった。
もし寝ていたら、と気配を消していたのは正解だったようだ。
言葉の通り佐久間君はベッドの上で待っていてくれた。枕を抱えベッドヘッドにもたれかかりながら良く眠っていたが。その手には無聊を囲っていたのか携帯が握られていた。
それをそっと手から外して、サイドテーブルに置く。それから顔に掛かった前髪を撫で上げると顕になった額に口付ける。それで起きてしまっても構わないという我侭な気持ちと、もう少しだけその幼い寝顔を見ていたいという気持ちが交じり合う幸福な時間を味わう。
ただちょっとした思い付きだけで口にした言葉で、反論を食らうのは必至だと思っていた。浮かれてつい口から零れてしまった。自分の仕出かした過ちをまざまざと突きつけられるこの場所で、一人で待っていてくれたことに感謝するしかない。
「—ち、さん?」
頬から口の端へと移動していた唇を、目を覚ましたらしい寝起きの彼のそれに重ねる。半分まどろんでいるようなぼんやりした瞳を見つめながら。それでも、差し入れた舌に応えてくれるのに気をよくして、益々深くする口付けに、さすがにはっきりと覚醒してきたらしい。
ばちりと音がしそうな瞬きを一つすると、自分の現状を認識しきれないながらも、僅かばかりの抵抗をみせた。唇が離れた僅かな隙に離せと紡ぐ唇を塞ぎ、背を叩く手を無視して、その手がすがりつくようになるまで続けた。
「ひ、でぇ……離して、って言った、のに」
やっと唇が解放されると、息も絶え絶えという態で、真っ先に口から零れたのはそんな可愛くない言葉だった。ただ、それは甘んじて受け入れなければならない言葉だったけれど。
くったりと呟くその様に湧き上がる思いを顔には出さずに、眼鏡を外して、目尻に堪った涙を己の唇で拭う。それから顔中にキスを落とす。
「ごめんね。だけど佐久間君だって悪いよね」
そんな言葉を囁きながら。
出迎えてくれた彼の格好は今時の言葉で言うところの彼シャツだ。いかにも運動はしていません、という細い足が惜しげもなく晒されていた。そう指摘すると、慌てたように布団の中に潜り込もうとする。勿論そんなことをさせるわけがない。腕の中から抜け出せないと悟ったのか、小さく言い訳してくる様がかわいい、と思う。
「コ、コーヒー溢しちゃって、勝手に借りるの、悪いとは思ったけど、理一さん帰ってくるまでに間に合うって……」
思って、洗濯をしてい乾かしている間にしていた格好のまま寝てしまった訳だ。迷惑に思うはずがないし、こんな歓待は勿論歓迎する。そう伝えると腕の中で小さくなって「も、勘弁して下さい……」と情け無い声を出していた。心の底からの本音で、別にいじめているつもりはないのだ。
「ありがとう」
ここで待っていてくれて。そう耳に直接落とすと、ピクリと肩が震える。佐久間君が感じる必要の無い罪悪感を感じていることは知っている。だからここで待っていてくれたのだろう。忘れてくれたら、などと都合の良いことを言えるわけがないが、せめてこれからのこの場所での記憶が、それを払拭してくれたらと思う。
言葉にすると、気にするからそれ以上は何も言わずに、見上げてくる目尻に唇を落とした。
それから悪戯心を出して耳の後ろのやわらかい皮膚を吸い上げると、慌てる気配がするのを小さく笑って、顔を上げた。
「それじゃ月見をしようか」
そう言って佐久間君の手を取って引き起こし、さっき外した眼鏡を掛けてやると、えっ?と見上げる瞳に苦く笑うしかない。そんなにがっついているように見えるのだろうか、……見えるのだろうな。けれどこれでもオトナなので、ある程度の我慢くらいできる。はずだ。
と思って離してやった手を、逆に掴まれた。
自分でもしようと思ってした行動ではなかったようで、目を泳がせてこちら以上に慌てている。けれどその手は離れなかった。
「佐久間君?」
「月、はまだ出てるから……。だから理一さんが、欲しい、です」
手を離さないまま指を絡め、俯いて白い項を淡く染め上げながら呟かれた言葉に、己は一体前世でどんな善行を積んだのかと思った。
頑なに顔を上げようとしない佐久間君の赤い耳を食み、月が沈むまで手放せなかったらなんと言い訳しようと思いながら、訪れた幸福を噛み締めた。
結局、月見がなされず迎えた夜明け、寝入り端の恋人に、色々な意味を込めて小さく謝罪の言葉を囁く。すると、「じゃあ、来週、有明の月を一緒に」と眠りの淵にいる不明瞭な声で返され、来週は絶対有給をもぎ取ろうと心に固く誓った。
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