12月20日
理一はかなり早い時間に職場を出た。こんなに早い時間に職場を出ることなど、一年を通じてあるかないかだ。車を停めた駐車場へと向かって歩きながら、理一は手袋をした手をコートのポケットへと滑らせた。そこには先ほど受け取ったばかりの小さな袋が一つ入っている。それをそっと指の腹で撫でた理一は、小さくため息をついた。
今年、彼へ贈るものはあっけなく決まった。本当は何でもない日にさりげなく渡そうと思っていたのだが、こんな日だからこそ、という思いもあってそれに決めた。
小さく笑えば、とたんに口元を染めたのは白い息。12月も残り二週間を切ったこの時期、暖冬と騒がれてはいるが、やはり冷え込みは厳しい。首もとを撫でる冷たい風に理一はマフラーを引き上げた。
「おじさん!」
高い声とともに、後ろから左手にとんと軽い衝撃を受けた。聞き覚えのある声に驚きつつも苦笑を浮かべて己の左腕を見下ろした理一は、その姿に目を見開いた。なぜならば、あの日。佐久間の左手を握って笑みを浮かべていた、あの女性その人だったからだ。
「…なつ、き?」
「吃驚した?」
従姉妹の娘は理一の腕にぶら下がるようにして屈託なく笑っている。
理一が夏希と顔を合わせたのは夏の上田以来だ。あの時にも、大学に入り随分と雰囲気が変わったと思ったものだが、それからの半年の間にさらに鮮やかさが増したようだ。昔、上田の実家で見せられた、祖母の若い頃によく似た凛と清しい笑顔をした女性になったと思う。
「おじさん?」
無言のままの理一に訝しげに夏希が首を傾げた。その様はまだどこか幼く見える。理一は慌てて口元を緩めた。
「吃驚したよ。夏以来だね」
そう言えば夏希もにこりと笑う。巻き付けた腕を引きながら「時間あるならちょっと時間つぶしに付き合って」と夏希がいうのに、理一は苦笑しながら頷いて、近くに見えたコーヒーのチェーン店へと足を向けた。
「時間つぶしって、デートの待ち合わせなのかな?」
窓際の席に腰を降ろしてそう言った理一に、夏希が頬を膨らませてむくれた。
「それは未だに彼氏のいない人間への嫌み?」
「あれ? 違うの?」
「違いますー。第一、デートだったらこんな時間に時間つぶしなんかしてないもん」
夏希の言葉に理一は浮かべた苦笑の後ろでほっと息をつく。佐久間と夏希、健二の関係が、まるで女の子同士の友人のようなものであることはよく知っている。端から見た三人には、色の匂いが全くしない。だが、それを言葉にしてはっきり聞くとやはり安心する。
「今日はお父さんの誕生日だから、皆で食事」
残業で少し遅れている両親を待って時間をつぶしているのだという夏希に、理一は目の前に置いたカップを取り上げて小さく笑う。
「和雄さん、誕生日今日だったっけ」
「そ、だから、今日はお父さんの行きたがってた和食のお店で食事なの」
そう言って笑う夏希は、何を思い出したのか眉を潜めた。
「お父さんの誕生日のプレゼント、健二くんと買いに行く約束してたんだよね」
「そうなの?」
「そうなの。ところが、健二くん風邪引いちゃってね。来られなくなったからって、佐久間くんが代わりに来てくれたんだけど…」
夏希の口から出た恋人の名前に、理一の手が一瞬止まる。それに気付いた風もなく、夏希は言葉を続けた。
「佐久間くん、しばらく見ない間に、ちょっと雰囲気変わったなって思ったのよね」
夏希の言葉に、軽く理一の眉が上がる。
「変わったって、どんな風に?」
「んー、なんていうんだろ。幸せですー、ってオーラが出てるっていうか」
眉間に指を置いて言う夏希に、理一はきょとりと目を瞬いた。
「なんか、満ち足りてる感じ?」
「…そう」
「うん。だから『彼女でもできたの?』って聞いたんだけど、笑って誤摩化すばっかりで聞き出せなかったのよね」
この寒いのにアイスカフェオレをオーダーした夏希は、さしたストローでコップの中身をからからとかき混ぜながら言う。それに理一は苦笑して持っていたカップを降ろした。
「佐久間くんにだって、秘めておきたいことの一つや二つはあるんじゃないのかい?」
「彼女ができたんなら『裏切り者吊るし上げ会』やりたいのに」
夏希の口から物騒な言葉が出たところで、机の上に置かれたかわいらしい色あいの携帯が着信を告げた。夏希の白い指がそれを取り上げて通話ボタンを押すのを見ながら、理一は口の端を小さく歪めた。それは、その秘め事にあんなにも動揺した己への自嘲の笑みだ。
「うん、うん、分かった。じゃ、移動する。うん」
そういう夏希の言葉に、理一は残っていたカップの中身を飲み干した。続いて、携帯を切った夏希も、残リ少なくなっていたカフェオレを飲み干す。
「お父さん達、駅についたっていうから。ありがとね、おじさん」
そう言って夏希が立ち上がるのに、理一も「いや」と首を振って立ち上がった。
店を出て、夏希は駅へ向かうために左へ、理一は車を預けてある駐車場へ向かうために右へと足を向ける。手を振って駅へと駆けて行く夏希の背中を見送って、理一は一つため息をついた。店に入った時に手袋を外したままにしていた手を再びポケットへと滑らせて、理一はその手触りを確かめる。理一は軽く俯くと、マフラーを少し引き上げて笑み崩れた口元を隠した。
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