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12月16日

 佐久間はいつものように研究室の引き戸をがらりと開けた。今日はいつもよりこなすバイトのノルマが多い。少し帰宅時間が遅くなりそうだと思いながら室内に踏み入れば、そこに見慣れた親友の後ろ姿を見つけて思わず口をかぱりと開けた。
「健二! お前、何やってんだよ!」
「あ、佐久間。おつか…」
「って、おい!」
 大判のマスクをした健二は振返って笑みを浮かべたが、途中で言葉を詰まらせて激しく咳き込んだ。それに佐久間は慌てて駆け寄ると丸めて咳に耐える背中を軽くたたく。手を上げて、小さく「大丈夫」と呟く親友に、佐久間はげんなりとため息をついた。
 健二は一昨日あたりから風邪を引き込んでいた。熱はそれほどでもないというが、とにかく咳がひどい。昨日も赤い顔をして必修科目の授業に出て来たから、ほとんど蹴り飛ばす勢いで帰宅させたのだ。
「でも、夏希先輩と買い物いく約束してるし…」
 聞けば夏希の父の誕生日プレゼントを選ぶ約束をしているのだという。
「あー、もう! そんなの、俺が代わりに行くから。とにかく帰れ!!」
 そう言ってなんとか説き伏せて帰らせたのだが、やはり佐久間に肩代わりをさせたことと、結果的に夏希との約束を反古にしてしまったことに若干の負い目があるらしい。
「でも、昨日のぶん、の、ノルマ。今日に、持ち越しして、るん、でしょ?」
 切れ切れにそう言う健二に、佐久間は深いため息をついた。
 確かに持ち越しはしているが、そんなに必死にこなさなければいけない程の量ではない。せいぜいが一時間か二時間、余分に作業すれば済むだけの話だ。だが、じっと見上げてくる健二に帰宅の意思がないことを悟ると、佐久間は背負っていた鞄を降ろしながらいつもの席へと足を向けた。本当に、この親友は見かけに寄らず頑固だ。
「…あんまり咳がひどいようなら、独断と偏見でストップかけるからな」
 そういえば、健二は嬉しげに「うん」と頷いた。
 並んでキーボードを鳴らしながら、佐久間は気づいたように健二を振り返った。
「あ、そうだ。夏希先輩から伝言」
 声を出すと流石についらいのだろう。佐久間の声に顔を上げた健二はことりと首を傾げて次の言葉を促した。
「『今度は一緒に行こうね』だとさ」
 そういえば、嬉しげにこくこくと頷く。それに小さく笑みを浮かべて、佐久間は言葉を続けた。
「夏希先輩、随分変わったよな。最初誰だかわかんなかった」
 健二に言われた待ち合わせ場所で、佐久間は夏希に声をかけられるまでまったく分からなかった。夏の上田から帰って以来顔を合わせていなかったせいもあるが、『綺麗になった』と思ったあの時よりも、さらに彼女は変化していた。
 薄く施された化粧も、その耳に光るシルバーの雪の結晶も、髪を緩く結い上げたことでさらされた白いうなじも。もともと綺麗な人だとは思っていたが、思わず立ち尽くしてしまったほどだ。
「佐久間くん!」
 それでも、鮮やかに笑って走り寄ってきたその姿は、共に学び舎にあった頃と変わりなく、佐久間をひどく安堵させたのだが。
 人は変わっていく。人に限らず、世の中の総てのことは時間の前に変化する。身を以てそれを経験しているのは、もしかしたら自分かもしれないと佐久間は薄く笑った。
 佐久間はふと手を止めて机の上に投げ出した携帯を見つめた。目当ての人物からの着信は、昨日の朝を最後に途絶えている。
 できれば声が聞きたいけれど、仕事の邪魔をするのは本意ではない。それに、仕事中ならばおそらく電話に出ることはできないだろう。
 佐久間は後でメールを送ってみようと思いながら、作業へと意識を戻した。






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