数学バカに関する一考察 1
気を利かせて席を外して、一階の自動販売機まで飲み物を買いに行った。飲み物を抱えて戻ってみたら、泣きはらした顔で笑う二人がいた。
「ふられちゃった」とへらりと笑った親友と、その腕に腕を絡めて「ふっちゃった」と笑う憧れの先輩に、空いた口が塞がらなかった。
──…なんだそれ。
桜舞い散る季節が終わり先輩がいなくなった。最上級生なんてもんになったし受験生にもなった。そんな環境の変化はあったが、相変わらず、俺達は並んでパソコンに向かってバイトに励んでいる。
「てっきり夏希先輩から正式に『お付き合いしましょう』って話だと思ったのになー」
「佐久間、いい加減しつこいよ」
使い慣れたキーボードをたたきながらぶつぶつと呟くと、健二が呆れたようにため息をついた。
「まぁ、ある意味、『家族』ってのは『お別れ』がない関係なわけだから、お前は夏希先輩と『一生モン』になれたと言えなくもないけどさ」
さらにぶつぶつと続けた俺に、健二はスルーを決めたようだ。一つ肩をすくめて目の前のシステムに集中しやがった。
「おい、こら。聞けよ、俺の話!」
「はいはい」
「なんだ、その投げやりな返事!」
「だって。佐久間、もう一ヶ月もずーっと同じこと言ってんだもん」
いい加減飽きるってば、という健二に、俺はずり落ちた眼鏡をあげながら睨みつけた。
「言いたくもなるだろう?! 夏希先輩とせっかくいい雰囲気になれたってのに、『ふられちゃった〜』で済ませちまうなんて、ガチであり得ないし!」
一気に言ったら息切れしたぞ、おい。俺は健二が無言で差し出してきたペットボトルをひったくって、お茶を一気に流し込んだ。
はー。水分とったら少し落ち着いた。
「…佐久間は分ってると思ってたけど」
「なにが!」
「僕も先輩も、結局、『恋』ってどんなものなのか分ってなかったんだよ」
それがどんなに視野を狭めるものなのか。暖かいだけの感情じゃなくて、黒くてどろどろしてる感情とも、向き合わなければいけないこともあるって──…。
「結局、僕らは『恋』に恋してたんだろうね」
画面を見つめたままそう言った健二の顔は、本当に穏やかで。俺はペットボトルを机の定位置に戻しながらため息を一つついた。
言いたいことを言い切ったせいか、大分クールダウンできた。
「…言われて気付いた、ってか」
「うん」
こいつは、先輩にふられたと笑ったあの日から、随分ふっきれたいい表情をするようになったと思う。なんというか、思わず目を惹く表情というかなんと言うか。今まで数学に絡んだことでもこんな表情は見せなかったのに。いつもどこか自信の無さげな、おどおどとした印象を与えるような顔をしていることが多かった。
「でも、去年の数学オリンピックの時には4ヶ月以上も代表落ちを引きずってたのに、なんでお前、引きずってないんだよ」
「えー? そう?」
「そうだよ。あの時は夏休みに入ってまでぐだぐだ言ってただろうが」
わかんないけど、と前置きして、健二は小さく笑った。
「『家族になろう』って言ってもらえたからかな」
健二の表情は相変わらず穏やかだ。
「切れることのないつながりをもらえたから。かもしれない」
俺は深いため息をついてがっくりと項垂れた。下手な惚気を聞くよりもよほど恥ずかしいと思うのは、きっと気のせいじゃないと思う。
「…よし、チェック終わり」
「なに?!」
唐突にエンターキーを押した健二がノルマ修了を告げる。
「お前、いつの間に!」
「だって、佐久間。さっきから僕に絡んでばっかで全然作業進めてないじゃん」
キーボードを画面の方に押しやって、健二は机の上に置いた鞄をたぐり寄せると中から数学の参考書を取り出した。
「待ってるから、さっさと済ませちゃいなよ」
──く、屈辱…!
俺は何も言えずにキーボードをたたき始めた。しかも、こういう時に限って演算式の多いトコが当たりやがるし。ついてねぇ。
無言で画面に向き合うことしばし。ようやく終わりが見えてきた。最後の行にたどり着いて、エンターキーを押した瞬間、数学と戯れてたいた健二の携帯が着信を告げた。
何気ない動作で携帯を取り出した健二に、まず驚く。
次いで、相手の名前を確認した健二の表情が一変した事に驚き、あまつさえ、いそいそと返事を返し始めたことにさらに驚いた。
思わず、マジマジと見つめてしまったのだろう。携帯をしまった健二が訝しげにこっちを見た。
「佐久間? どうかした?」
ひらひらと目の前で手をふる健二に、はっと我に返る。
「…健二」
「なに?」
「お前が数学と戯れてるときに携帯とる姿なんて、初めて見たんだけど…」
「はぁ?」
何を言ってるんだと言わんばかりの健二の表情に、俺は逆に冷静になれた。うん。まだ衝撃は残ってるが、大丈夫、落ち着いた。
「で、誰からだよ? メール」
「佳主馬くんからだけど?」
「はぁ?! キング?!」
「…う、うん」
視界の隅でシステムが『処理修了』のメッセージを出したことを確認しながら、ペットボトルに伸ばしかけていた手が止まる。
「チャットに誘われたから、OKの返事返したんだけど…」
「──…」
「それがどうかした?」
「──…」
なぁ、健二。
前々から、不思議に思ってたんだけど、聞いてもいいか?
むしろ、小一時間、問いつめたいくらいなんだが、俺の疑問にお前は答えてくれるだろうか?
去年の夏以来、夏希先輩と話す時よりも、キングの話題を振ってくる時の方が空気が甘いって、どういうことなわけ?
言うに言えない問いを、お茶の残りと一緒に飲み込んだ4月半ば。
この時の俺は、この先、この親友とOZで一番有名なアバターの中の人にさんざん振り回されることになるなんて、想像もしていなかった。
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