星に願いを
すっかり吐く息が白くなって、あの夏の日が遠くなってしまったことを実感する。
あれは現実だったのかと疑いたくなるほどの非日常。
それでも、途切れることのない言葉達が、確かにあれが始まりだったと教えてくれる。
いつものように物理部の部室でパソコンに向かいながらOZの保守点検のバイトをこなす。隣では佐久間がプログラムをいじりながら、コーヒー牛乳をすすっていた。すっかり寒さが身にしみる季節になったが、パソコンからの廃棄熱で手元はかろうじて暖かい。
タンとEnterキーを押して椅子にもたれかかった。少し待って、エラーが返されることなくシステムが流れたのを確認して、健二は机に突っ伏した。
「終わったぁ…」
そんな健二に佐久間は笑いながら「お疲れ」と声をかける。
あの夏に、末端の末端の末端だったバイトは、末端の末端くらいに格上げされ、作業内容もより複雑になっていた。ちなみに、難度が上がったからと言って時給があがったりしたわけではない。
「さてと、んじゃ帰るか」
佐久間はコーヒー牛乳のパックをゴミ箱へと放ると、バイト用に上げていたパソコンを落とす。もう一つ、プログラム作成用に上げていたノートパソコンを閉じて鞄に突っ込みながら、健二を振り返った。
「あ、うん。ごめん、待たせて」
「気にすんな」
すっかり帰り支度を済ませて鍵を持つ親友に、健二は急いでパソコンの電源を落とす。机の上に放り出したままの鞄を肩にかけると、戸口へと急いだ。
昇降口で靴に履き替え校門へと続く通路を歩く。新しく発売されたアプリの新バージョンをあつく語る佐久間に相づちをうちながら、すっかり闇に沈んだ校庭に目を向けた。
あの夏、うるさいくらいに響いていた運動部の声はない。3年生が引退し、2年生へと引き継がれたこの時期、受験シーズンへの本格的な突入と相まって、活動は小休止となるのだろう。そういった些細な変化に、季節が確実に移り変わっていることを実感する。
先週、『息抜き〜』と言いながら物理部の部室へ顔を出した夏希も、剣道部を引退し後輩への引き継ぎを終えたと言っていた。
「あとは受験まで一直線よ〜」
そう嘆く姿に、来年は我が身かと、佐久間と顔を見合わせて苦笑したのだ。
高台にあるこの学校は、校門を出ると眼下に住宅街が広がる。遠くに見える副都心の高層ビル群がまるで浮き島のようだ。
「お、オリオン座発見〜」
佐久間が隣で空を見上げる。つられて見上げた先には、オリオン座の三ツ星がネオンサインに負けずに瞬いていた。
「冬の方が空気が澄んでるから星がよく見えるんだってさ」
「へー。確かに、冷えてる方が澄んでるって感じするもんな」
「あ」
「ん?」
「フォーマルハウト」
南の地平近くにひとつだけ、ひときわ強く輝く星が見える。
「フォーマルハウト?」
「うお座の口のところにある一等星。南の地平近くには他に明るい星がないから、見つけやすいんだ」
へー、とさして興味なさそうに呟いた佐久間がにやりと笑う。
「数学にしか興味のないお前が星座なんて。誰の影響だよ?」
暗に夏希の存在を揶揄する佐久間を、健二は肘でどついた。
「天文学と数学は比較的関連性があるんだよ。古代では暦を創るのに数学が必須だったんだから」
もっとも、今では数学よりも物理学の方がより関連性は高いけれど。
「へー」
「お前、興味ないだろ」
「あ、バレた?」
笑い合いながら坂道を下る。
健二は再び南の空を見上げた。地平近く、地上の光に負けずに瞬いている星。『南の一つ星』や『秋の一つ星』とも呼ばれるこの星が健二は好きだった。ただ一つで輝いていても、その姿は寂しげではなく、むしろ気高さを感じさせるような佇まいで。その孤高ともよべる姿に惹かれた。
そしてそれは、自分のよく知る少年に似ているような気がする。
──佳主馬くんはフォーマルハウトみたいだ
孤高の存在。それは彼の分身である『キング・カズマ』にも通じるものがある。
だが、孤高の存在ではあるが、決して孤独ではない。等級が低く肉眼では確認しずらいが、フォーマルハウトの周囲には数多の星がある。同じように、佳主馬の周囲にも、家族やあの親類達がいる。
自分もその中の一人になれればと思いながら、健二はコートのポケットに少し冷えてきた手を突っ込んだ。
すっかり葉を落とした桜並木の隙間から、新月間近の細い月が覗いていた。
駅で佐久間と別れ家へと歩く。通り過ぎる家に灯る明かりは、そこに暖かい『家庭』があることを教えていた。
こんな時、あの夏を過ごした家を思い出す。あの家にもきっと、暖かい明かりが灯っているのだろう。いや、あの時、あの家に集まっていた、あの明るい家族達の家々にも、きっとそれぞれに。
そこまで考えて健二は一つかぶりを振った。
あの夏を経て得たものは大きく多い。だが、失ったものもあった。
あの家に行くまでは感じないようにしていた、孤独や寂寥感。そういったものを閉じ込めていた箱の蓋を、なくしてしまった。
だからこうして、ふとした瞬間に、寂しさが溢れ出してくる。滲むように、じわじわと心を冷やす。
ため息をついて鞄を持ち直した瞬間、携帯が着信を知らせた。コール3回で消えたそれはメールだ。携帯を取り出し、差出人の名前を確認して、健二は苦笑いを浮かべる。
いつも彼は、狙い済ましたかのようなタイミングでメールをくれる。例えば、健二が一人で夕食を採っているときに。今のように、心に蒼い孤独が忍び寄ったときに。
携帯を開くと、苛烈な赤い目の世界最強ウサギがメールを差し出していた。キング・カズマがメールを運んでくることに、最初は戸惑いも驚きもしたが、今ではすっかり慣れてしまった。健二は携帯を操作してメールを開く。
「差出人:池沢佳主馬
宛先:小磯健二
件名:今ヒマ?
チャットできる?」
いつも通りの短いメールに小さく笑う。携帯で時間を確認し、まだ帰宅途中であることとOZへの予想ログイン時間を返信する。メールを運んでいったのは、あの夏から使うようになった黄色いリスのアバターだ。
上田から戻った数日後に佳主馬から連絡がきた。いわく、携帯を購入したので連絡先の追加をしてくれ、というものだった。それ以来、こうしたチャットへの誘いや挨拶程度のメールのやり取りは携帯を使っている。携帯を購入した経緯はわからないが、こまめに連絡がとれるのは、さすがは携帯といったところか。
すぐに佳主馬から了承の返事が来た。健二はそのメールを確認すると家へと向かう足を早める。
孤独な一つ星が二つ星になるまで、あともう少し。
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