また明日
「じゃあ、また。OZでね」
あの人はそう言って手を挙げると、ふわりと柔らかく笑った。
「え? 健二さん、明日帰るの?」
「うん、さすがに夏休みも残り一週間切っちゃったし」
課題は来る前に終わらせてたからいいんだけどバイトとか色々ね、そういって健二はふにゃりと笑った。
そうか、とつぶやいて、佳主馬はデスクトップに表示されたカレンダーを見る。今日は8月26日。
もうすぐ夏休みが終わる。
本当は夏希と一緒に盆前には帰る予定だった健二を引き止めたのは佳主馬だ。母に頼み込んで『勉強を見てほしいから残ってくれないか』と引き止めてもらった。
母は息子の珍しい頼み事に目を丸くしていたが、小さく笑みを浮かべると快諾してくれた。その笑みに見透かされたような気がして、思わず正座した膝の上の手をぎゅっと握りしめる。
「頼んでみるけど、断られても文句いわないのよ?」
そう言って去っていく母の背を見送りながら一つため息をついた。親の力を借りないとあの人を引き止めることすらできない。自分がまだ子供であることを自覚させられて苛つく。だが、背に腹は代えられない。頭一つ下げるだけで時間の共有が延長できるなら安いものだ。
佳主馬は立ち上がるとノートパソコンを手に納戸へと向かった。
健二に与えられた部屋を出て聖美は小さく笑った。
本当に珍しい。あの子が親族以外の誰かにこんなに懐くなんて思わなかった。夏希には申し訳ないけど、珍しく「お願いごと」をしてきた息子に早く朗報をと思ってしまうのは、母心というものだろう。
もっとも、と聖美は思う。息子が健二に懐くのもわからなくはない。
自分で言うのもなんだが、佳主馬は特異な才能を持った子だ。それが原因でいじめられ、皮肉なことにそれがさらに才能をのばすに結果になった。そして、存在自体が同じ年の子達と大きく隔たってしまったのだ。
健二も同じだ。彼もまた、ある意味、佳主馬以上に特異な才能を持つ子だと聖美は思っている。ただ違うのは、健二には同じように特異な才能を持った、佐久間という理解者がいたこと。佳主馬にはそれがいなかった。
だから母親として、佳主馬が健二という理解者を得ることで、周囲への関心を広げてくれればと望んでしまうのだ。
「それが、特殊な感情だとしても、ね」
聖美のつぶやきは誰の耳にも触れることなく、夏の空にこぼれ落ちた。
健二が帰る日。佳主馬は見送りと称して健二とともに新幹線の駅まで来ていた。ポケットには、ずっと渡せずにいた、OZのIDとメールアドレスを書いたメモが入っている。携帯でも持っていれば簡単に交換しようと言えたのだろうが、残念ながら、佳主馬は携帯を持っていなかった。今までは携帯を持つ必要がなかったのだ。それをこれほど悔やんだことはない。
「そういえば、佳主馬くんて携帯持ってないよね?」
今まさに考えていたことを言われて、佳主馬は驚いて健二を見上げる。
「なんで?」
のほほんと聞かれて、一瞬言葉につまる。
「…メールはパソコンで十分だったし、電話なんて、家にかけるぐらいしか使わないし」
「そっか」
並んで歩きながら健二がうなずく。そういえば、僕も中学の頃は持ってなかったなぁ、というのに、何故か少しだけほっとした。
「じゃあ、パソコンのアドレス、教えてもらっていい?」
「…!」
待合室の椅子に荷物をおろして、健二が携帯を取り出す。驚きのあまり無言で自分を見つめる佳主馬に気づいて、慌てたように付け足した。
「あ、もちろん、嫌なら無理にとは言わないけど!」
わたわたと慌てる様が、彼のアバターを連想させる。
「…これ」
「え?」
「…アドレス。あと、OZのID」
佳主馬はポケットから出したメモを健二に押し付ける。ずっと渡せずに持ち歩いていたメモは、少しこすれて、紙の四辺が丸くなっていた。
「あ、りがとう…」
差し出されたメモを、健二は驚きつつもうれしそうに受け取った。
じゃあ早速、と携帯を操作する健二に気づかれないように、佳主馬は小さく息をつく。アドレス一つ渡すだけでこんなに心臓に負担がかかるなんて思わなかった。
「…完了、と」
携帯を閉じてポケットにしまうと、健二が佳主馬を振り返る。
「僕のアドレスと電話番号、送っておいたから。佳主馬くんもアドレス登録しといてもらっていいかな? あ、あと、OZのフレンド申請もしといたから、後で承認してね」
にっこりと笑ってそう言った健二に、佳主馬は再び固まった。
新幹線のドアが閉まる。指定席を確保してあるからか、健二は電車が動き出すまで、デッキで手を振ってくれた。
それに手を振り返して、佳主馬は走り去っていく列車を見送る。
別れ際、彼は佳主馬を振返り、ふわりと笑みを浮かべて。
「じゃあまた。OZでね」
そう言って、『これから』の約束をくれた。
──帰ったら
自然と笑みが浮かんでしまうのを止められない。
──フレンド登録の承認と申請をして
足取りも軽く、在来線への乗り換え口へと向かう。
──アドレス登録しないと
とりあえず、つながりは確保した。
重要なのは、このつながりを切らないようにすること。
切らせないようにすること。
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