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第一回接近遭遇

 夏休みもあと一週間で終わろうかという頃、健二はようやく東京に戻って来た。海外の出張先から一時帰宅した父親や、陣内家滞在中にも幾度となく電話で連絡を取り合っていた母と、久しぶりに、本当に久しぶりに家族で食卓を囲んだ。
 そんな一連の出来事を、夏休み明けの部室で聞いた佐久間は、少しだけほっとして苦笑に似た笑みを浮かべた。この、草食系を絵に描いたような親友が家族に縁薄いことは知っている。部室で食べる健二の昼食は、いつだってコンビニの総菜パンだった。それを寂しいと思っていない姿が、佐久間にはより寂しく見えたものだ。
 基幹システム復旧の目処がたったOZの管理棟にログインし、また同じようにバイトにいそしみながら、佐久間はうきうきと陣内家の─特に佳主馬の─話をする親友の頭を、ぐしゃぐしゃとかき混ぜた。

 そんな風に始まった新学期。残暑厳しい部室で、申し訳程度の扇風機をかけつつ、二人はバイトに励んでいた。基幹システムの復旧が済んでからというもの、細々としたシステムの復旧作業が山のように押し寄せてきている。ほぼルーチンに近いその作業は、『人海戦術!』とばかりに容赦なく末端の末端であるバイト要員へと降り注いだ。
 ちなみに、今日は土曜日。授業は午前中で終了したため、二人は早々に部室に根を張っていた。
「…けんじぃ」
「…なに」
「そっち、終わったか?」
「…もう少し」
「こっちももうすぐ終わるから、終わったら声かけてくれ…。デバック…」
「…りょーかい」
 左手でキーボードを打ちつつ、右手で傍らに置いたキャップ開けっ放しのペットボトルを掴むと、佐久間は勢いよくその中身を飲み干した。冷房設備のない部室は窓を全開にしても扇風機をまわしても、人から放射される熱とパソコンの廃棄熱とでうだるような暑さだ。じっとしていてもだらだらと汗が流れ落ちてくる。水分補給を怠ればすぐに熱射病になれること請け合いだ。
「…請け合いたくねーけどな」
 佐久間はペットボトルを元の位置に置くと、ぽつりと自分へのツッコミを呟く。独り言でも呟いていないと、暑さと作業量とに押しつぶされてしまいそうだ。
「…おわ、った…」
 隣で軽快な音を響かせてキーボードをたたいていた親友が机に突っ伏す。パイプ椅子がぎしっと音を立てて傾いだ。
「…こっちも、おわ、った…。んじゃ、デバック…」
「…うん」
 互いのシステムを走らせて問題なく稼動することを確認して、わざと間違った数値を入れてエラーが返されることを確認して…という一連の作業を、ほぼ機械的にこなす。
「…おっけ、問題なし」
「…こっちも」
 それぞれのシステムが正常に稼動することを確認して、佐久間は先ほどの健二同様机に突っ伏した。
「次は…?」
「…えー、と…」
 健二の言葉に、佐久間はのろのろと顔をあげると、送られてきたリストのプリントアウトを手に取る。左上をホチキスでとめたそれをぺらりとめくって目を見開いた。
「…これで終わり」
「…え?」
「今週のノルマはこれで終了!」
「ホントに?!」
「おう!」
「…よ、良かった…!」
 安堵の大きなため息を同時についた二人は、同時に机に突っ伏した。
 戦い終わって、さて帰ろうかと支度をはじめた二人の耳に、軽い、けれどかなり早い足音が届く。なんだろうと顔を見合わせたところで、夏希が勢いよく室内に走り込んで来た。
「あのね! 理一おじさんがご飯奢ってくれるって! 食べにいこうよ!」
 挨拶もそこそこに満面の笑みで言い放った夏希に、満身創痍に近い草食系男子は再び顔を見合わせる。次いで、一月程前にも似たようなことがあったなぁ、あれが全ての発端だったんだ…と思わず遠い目をする健二の隣で、佐久間はきょとりと一つ瞬いた。
「…り、いち、さん…? …って、誰だっけ?」
 隣で遠い目をしている健二に向かって問いかけた佐久間に、夏希が驚いたように目を見開いた。
「佐久間くん、覚えてないの?! 本家の理一おじさん!」
「え? え?!」
 夏希の剣幕に佐久間はおろおろと意味もなくてを上げ下げする。その様子に、健二はため息を一つつくと口を開いた。
「ほら、ミリ波回線用のアンテナモジュール用意してくれた、自衛官の…」
「あぁ! …そういえば、そんな人も、いた、ような…」
 佐久間の言葉に、健二は深いため息をつき、夏希はぽかんと口を開けた。
「…佐久間くんて、人の顔とか名前、覚えない人?」
「…あはははは」
 あんなに記憶力いいのに、という夏希の言葉に、佐久間はごまかしを多分に含んだ笑みを返す。そんなやり取りをする二人に、健二は一つため息をつくと座った目で親友を見た。
「…佐久間、その『当座必要のない情報は脳内削除』の姿勢って、どうかと思うよ」
 健二の心底呆れたような物言いに、夏希は感嘆とも唖然ともつかないため息をついた。

「食事って、いつですか?」
 のほほんと聞いた健二に、夏希が満面の笑みで答えたのは「今日! これから! 18時に駅で待ち合わせなの!」というとんでもないもので。汗だくでバイトを終わらせた男子二人はさすがに参加をためらった。もとより、帰ってシャワーを浴びて昨日の睡眠不足も解消したいと思っていた佐久間は、素直に「今回は遠慮させていただく…ってのは、だめですか?」と口にしてしまったのだが。
「僕ら、ここに篭ってバイトしてたんで、汗だくだし…」
「だーいじょうぶだよー! あたしだって部活終わりの汗だくだし!」
 佐久間の言葉をフォローするように付け足した健二に、夏希はからりと笑う。結局、一緒に行く気満々の夏希に逆らうことはできず、二人は引きずられるようにして部室を後にした。
 夏希が待ち合わせ場所に指定されたという駅は、在来線とJR線が交差する、いわゆるターミナル駅で、出口を一つ間違えただけで目的地に辿り着ける確率が下がるような場所だった。当然のように駅から流れ出す人も、駅に流れ込む人も、普段佐久間や健二が利用しているような私鉄線の駅とは比べ物にならない。
「こっち!」
 理一から届いたというメールの指し示すままに歩き出した夏希の後を、健二と佐久間は必死についていく。運動部故の反射神経なのか、携帯を見ながら歩いているというのに、夏希の足取りはよどみがない。対して、運動不足気味の草食系男子は人ごみにつっかかりつつ、なんとか歩いていた。
「えーと、この辺のはずなんだけど…」
 何をモチーフにしたのか微妙なモニュメントの前で立ち止まった夏希はきょろきょろとあたりを見回す。その夏希の斜め後ろで、健二と佐久間は乱れた呼吸を整えようと深呼吸を繰り返していた。
 と、夏希が一点を見て、満面の笑みを浮かべる。
「いたいた! おじさーん!!」
 叫ぶなり、携帯を持っていない手を大きく振ると、夏希は小走りに人ごみを抜ける。慌ててそれに続いた健二と佐久間の目に、この暑さの中、涼しげに佇む人の姿が映った。
─えーと、この人が『理一さん』…
 歩み寄って親しげに話をはじめる親友の背を見ながら、佐久間はその姿を脳にインプットする。
 背がとにかく高い。成長期終盤(自分もだが)の健二より、頭一つは優に高い。顔立ちは親戚だけあって若干夏希に似ているだろうか。整った顔はそげた頬のラインと相まって精悍な印象を与えている。白いスタンドカラーのシャツに、麻のスラックスという出で立ちが涼しげに見せているのだろうと思った。
 思い返してみれば、確かにあの日、PCの画面越しに健二と対峙した時、その背後にこんな人がいたなぁ、と佐久間は思う。あの時は夏希の本家だという陣内家に用意されたマシンやその環境、それ以上に、健二の隣に座った少年がキング・カズマだという事実の方に衝撃を受けて、そればかりが印象に残っていた。
 その人はぺこりと頭を下げる健二に何やら笑顔で返答している。その目元にごく薄く皺が刻まれるのを、佐久間は一歩離れたところでぼんやりと見ていた。
 と、細められていた目がついと流れて、視線が佐久間に止まる。一瞬、目の奥に深い色が浮かんだが、それはすぐに霧散した。そして、健二に向けていたのと同じ笑みを浮かべたその男は、大きく一歩を踏み出すと佐久間に右手を差し出した。
「佐久間くん、だね? 実際に会うのは初めてだね。陣内理一です」
「…どう、も。佐久間敬、です」
 いきなり目の前に迫った長身に気圧されたように佇んだまま、それでもなんとか右手を動かして握手に応えた佐久間の頭に浮かんだのは、ただ一言。
─俺、この人、苦手かも
 モニター越しでない、実際にその人物を前にしての、佐久間の陣内理一に対する第一印象は、『油断できない』。それは、あの一件とその直後に連絡を取り合った時の印象とは、真逆のものだった。

 店を予約してあるからという理一に案内されたのは中華料理の店だった。一目見て高校生の小遣い程度では入れないと分かる、もしかしたらドレスコードなんかあったりするんじゃないの? という店構えで、佐久間は看板を見上げてあんぐりと口を開けた。
「…なぁ、健二」
「…なに、佐久間」
「ホントにここで、メシ食うの?」
「…みたいだよ」
「俺、急に具合が…」
「…言えるものなら言ってみなよ、それ」
「…。」
「二人とも、どうしたのー? 早く、早くー!」
 店の手前で立ち止まり並んで店を見上げていた草食系男子二人に、女王様の死刑宣告が下る。佐久間は微妙に口元を引きつらせつつ、重厚な店のドアを背に立つ陣内家代表に向かって歩み寄った。
 店内は白と赤とで統一され、弦楽器の演奏が静かに流れている。観葉植物で区切られたテーブルのそれぞれの間隔は広く、話し声が漏れ聞こえてくることもなさそうだ。
 そんな事を考えながら長い廊下を歩いた佐久間達一行が案内されたのは、店の一番奥。中庭に面した、完全に区切られた個室だった。中華料理でおなじみの円卓が部屋の中央にどんと鎮座し、入り口には峯山を模した彫刻の施された衝立てが置かれている。
「…。」
「…。」
 きっちりと黒服を着込んだ店員が戸口に控えて着席を促すのに、佐久間と健二はその横に佇んだまま固まってしまった。どちらが上座でどちらが下座になるのか、そもそも、どこにどうやって座ればいいのかすら解らない。
「適当に座っていいよ」
 笑いを含ませた声で言われた言葉に佐久間はどこかでなにかがプツリと切れる音を聞いた。
「さ、佐久間?!」
 小声で名を呼ぶ親友を無視してだかだかと室内に踏み入ると、衝立てから向かって左側、悠然と立つ長身の男と向かい合う位置にあった椅子に座る。慌ててそれに続いた健二が佐久間の隣の席に腰を降ろした。夏希が健二の隣の席に座り、その夏希の隣の席、ちょうど佐久間と向かい合う席に、理一は座った。
 食事は文句なく美味かった。さすがというべきか、コースと思われる料理が絶妙のタイミングで運ばれてくる。そして、それは円卓を囲む客の会話を邪魔することがなかった。
「でね。今朝になって二人に食事会の事言ってなかったの思い出して、部活終わってからあわてて誘いに行ったんだけどね」
「夏希、僕が『食事でも』とメールしたのは、たしか一週間前だったと思うんだけど?」
「だから、ごめんてば。でも補習とか色々あってばたばたしてたんだもん」
「まったく…。で、二人はいきなり今日ここへ連れてこられた、というわけなんだね」
 急な話になってしまって申し訳なかったね、と苦笑する理一を、佐久間もまた笑みを浮かべながら盗み見る。隣に座る健二は恐縮して小さくてを振りながら「誘っていただけて嬉しいです!」などと返している。
「あの時は二人にかなりお世話になったからね。お礼というのも変だけど」
 理一が笑いながらそう言うのに、健二は一層恐縮する。
「や、俺、特に何もできてませんでしたけど…」
 その場にいたわけでもないし、という佐久間に、理一はことりと首を傾げるとおかしそうに笑った。
「佐久間くん、謙遜が過ぎるね。あれだけのシステムを構築しておいて」
 横で健二と夏希が大きく頷くのに、佐久間は居心地悪く頬をかく。と、夏希が何を思い出したのか、ぷっと吹き出した。
「でも、佐久間くんてば酷いんだよー」
 けらけらと笑いながら言う夏希に、健二が言いたいことを察したらしい。苦笑しながら夏希の言葉を引き継ぐ。
「佐久間ってば、理一さんのこと、忘れてて…」
 佐久間は二人の口から飛び出した言葉にぎょっとして肩を揺らした。
「ちょ、おい、健二っ! 夏希先輩も…!」
「そうそう、さっき誘いに行った時も『理一さんて、誰だっけ?』って」
 笑いながら言う夏希の言葉に、佐久間はこめかみを押さえて黙り込み、理一はウーロン茶の注がれた口広の湯のみを持ったまま目を見開いた。
「すみません、悪気はないんですけど、佐久間って、『当座必要のなさそうな事は記憶領域から削除』する癖があって…」
「って、こら、健二!」
 慌てて健二の言葉を止めようとした佐久間を面白そうに見つめて、理一は湯のみを置くと頬杖をついた。
「酷いなぁ、僕、忘れられてたの?」
 くつくつと笑いながら言われて、佐久間は「…すんません」と小さく頭を下げる。
「…ったく、余計なこと言うなよ!」
「だって、佐久間、いっつもそうなんだもん。記憶力はハンパなく良いのにさー」
「だからって、本人に暴露すんなっつの!!」
 草食系男子がこそこそと言い合うのに、夏希と理一が声を上げて笑う。
「で、今回は覚えててもらえそうかな?」
「大丈夫だよねー?」
 夏希までが笑っていうのに、佐久間は気まずげに視線を逸らしながらも「大丈夫っす」と呟く。
「じゃあ、忘れられないように、定期的に食事会でもさせてもらおうかな」
 笑ってそう言う理一に佐久間はぎょっとする。
 夏希が「やったー」と嬉しそうに声を上げる姿とそれを微笑ましげに見守る親友とをどこか遠くに見ながら、佐久間は湯のみの中のウーロン茶を飲み干した。

 これが、陣内理一と佐久間敬との、現実世界での第一回接近遭遇。
 まさか、「定期的に食事会」が本当に実行されるなど、しかも回を重ねるごとに参加人数が減り、最終的にはサシでの食事会になるなど、この時の佐久間は想像もしていなかった。






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