女体化
Paralell
親父の一番長い日 佐久間敬史の場合

 リビングに燦々と降り注ぐ午後の日差しを浴びて、彼、佐久間敬史は新聞を広げていた。昼食を済ませて腹も満たされて、さらに程よく効いた空調の中で日差しを浴びれば、自然とあくびも漏れ出てくる。くぁっと大きく口を開けて肺に空気を送り込んだ敬史は、この頃とみに見づらくなった紙面へと目をこらした。
「そんなに眉間に皺を寄せるなら、素直に老眼鏡作ればいいのに」
 湯のみをテーブルに置きながら呆れたように呟いた妻に敬史は一つ肩を竦めた。還暦まではまだ幾年かある。せめてそれまでは、と思うくらいは許して欲しいというのが正直なところだ。
 湯のみを取り上げて飲みながら、敬史はふっとため息を一つついた。
 子供もすっかり大きくなり、休日の昼間といえども家に揃っていることの方が珍しくなった。今日も、二人の娘はそれぞれに家をあけている。
 そんなことを考えながら湯のみを傾けていた敬史の耳に、来客を告げる玄関のチャイムが届いた。台所に立っていた妻がぱたぱたと足音を響かせてリビングを出て行く。一言二言何かを話す声が聞こえ、次いで、長女の声が聞こえた。長女が帰宅したのかと視線を新聞に戻した敬史の耳に足早に戻ってくる妻の足音が聞こえた。そしてリビングではなく隣の和室へと入るなり、押し入れから客用の座布団を引っぱり出して座卓の周りへと並べ始める。
 それをぼんやりと見やっていた敬史を振り返り、妻は少々戸惑いを乗せた表情で手招きをした。
「お父さん」
「んー?」
「ちょっと」
「あぁ?」
「こっち…」
「なんだ?」
 一向に動こうとしない夫にじれたように和室から歩み寄って来た妻が、新聞を握っていた腕をとるとぐいぐいと引っ張っていく。わけもわからず座卓のリビング側、いわゆる上座の向かって右側に座らされた敬史は、そのままキッチンへと取って返した妻を伸び上がるようにして目で追った。
「どうぞ」
 長女の声がして、リビング側のドアではなく、和室側の襖がからりと開いた。その音に視線を戻した敬史が見たのは、長女に案内されて和室の入り口へと顔を出した長身の男の姿だった。
 背が、とにかく高い。鴨居に額をこすりそうなほどだ。年の頃は三十代半ばからいくらか出たくらいだろうか。きっちりと着込んだスーツはいかにも着慣れた様子の落ち着いたもので、首元のネクタイも男の落ち着いた雰囲気に良く似合っている。
 長女に促されて室内に足を踏み入れた男の後ろに、見慣れた姿を見つけて敬史の目が見開かれた。
──二人目は男の子が良かった
 産まれた時にうっかりそう呟いてしまった敬史のせいなのか、なぜか女らしさの欠片もなく育ってしまった次女が、家ではついぞ見かけた事のないシックな色合いのワンピースを纏って男の後ろに立っている。うっすらと頬を染めて、所在無さげに視線を彷徨わせていたが、男に手を引かれおずおずと室内へと足を進めた。呆然と見上げる敬史の前に膝をつき、深々と頭を下げた男に倣って、その隣に同じように膝をつくと父の顔を盗み見ながら頭を下げる。
「座布団、使って」
「失礼します」
 小さく笑ってそう言った長女の言葉に、男は軽く頭を下げると座布団へと膝を進めた。次女もそれに倣って座布団をへと膝を乗せる。
 二人が座布団へ膝を進めたことを確認して、長女はリビングへと歩いて行った。途中、薄く口を開けたままの父を見て、こらえきれないとでも言いたげに肩を震わせる。そのまま、ソファに半ば寝転がるように腰を降ろすと、声をたてないようにしながら腹を抱えて笑った。
 そんな長女の様子にも気付かず、並んで座った二人を交互に見て、敬史は小さく口を開け閉めした。空調の効いた室内が、いっそう冷えたような気がする。
「…粗茶、ですが」
 キッチンから戻った妻が盆に乗せた茶をそれぞれに差し出すのを、どこか遠い出来事のように敬史は見やった。盆を傍らに置き敬史の隣の座布団へと腰を降ろした妻が、おそるおそるといった風情で口を開く。
「…じんのうちさん、でした、よね?」
「はい」
 はっきりとした声でそう返答した男は、再び深々と頭を下げた。
「敬さんと、お付き合いをさせていただいております。陣内理一と申します」
 その言葉を聞いた瞬間、敬史の世界から音が消えた。
「あの、陣内さん?」
「はい」
「失礼ですが、陣内さん、おいくつ…」
「今年、42になります」
「随分と年が離れてらっしゃるようですけど、敬とはどちらで…?」
「私の姪が敬さんの高校の一学年上におりまして、その関係で知り合いました」
「あの、ご職業は?」
「公務員です」
 石像と化した敬史の向かい側で、陣内と名乗った男がハキハキと妻の問いに受け答えをしている。男の隣に座った次女はといえば、正座した膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめ、赤く染めた顔を少しだけ俯けていた。
──いつの間に
 敬史は妻と男の声を遠くに聞きながら、その姿に目を細めた。
──いつの間に娘は、少女から一人の女性になっていたのだろう
 母の声にも、呆然としたまま視線を向けている父にも、彼女は何ら後ろめたい思いを抱いていない。それは育ててきた親だからこそ分かるものかもしれないが、隣に座る男を心底信頼していることが、その身の内から滲んで見えた。
 だからこそ、再度深々と頭を下げた男が言った言葉に、敬史はかっと頭に血をのぼらせた。
「今日はお許しを頂きにきました。お嬢さんを僕に下さい」
 その言葉が終わるや、敬史は勢いよく卓を叩いた。視界の端で、次女の肩がびくりと揺れたのが見える。
「許すと、思っているのかね?」
 眉間に皺を寄せた険しい顔をしていると自分でも分かる表情で見つめても、男は眉一つ動かさなかった。それがまた敬史の神経を逆なでする。
「親子程も年の違う男に、娘をやると言うとでも?」
「お父さん」
「父さん、ちょっと、言い過ぎ…」
 隣に座る妻からと、リビングのソファに腰を降ろした長女からと、嗜めるような声は聞こえていたが、敬史の言葉は止まらなかった。
「娘の口から、一度も名を聞いたことのない男に、娘をやれると?」
「お父さんったら!」
 酷く憤ろしくて、敬史の肩がぶるぶると震える。拳を握りしめた腕にかかった妻の手を、少々乱暴に振り払った。
「しかも娘はまだ学生だ。高校生だぞ。苦労すると分かっていて頷く親が、どこにいるというんだ!」
「お父さん、言い過ぎですよ!」
 敬史の怒声にもそよとも揺るがない男の隣に座った娘が、目を見開いているのが見える。その目から、こらえきれなかったらしい涙が一筋、こぼれ落ちた。
「…父さん」
 小さく呟かれた声に、敬史は開きかけていた口を閉じた。娘を見て深く息をつくと、堅く目を閉じる。
 手のかからない子だった。長女の方は親を拒絶するような思春期特有の反抗期があったが、次女にはなかったように思う。中学の頃からパソコンのめり込むあまり眼鏡をかけるようになった時には流石に心配したが、それだけだ。自分を主張するでもなく、それでいて場を明るくしようと気遣うような、そんな子だった。
 まさか、20年に満たない短い時間しか側に置けずに攫っていかれるなど、思ってもみなかった。
「…お父さん」
 隣に座る妻が声を掛けてくるのに、敬史は小さく頷く。
 閉じていた目を開けると、向かいに座る男を見た。自分と十と少ししか年の違わない、娘が選んだ男は、変わらず些かも姿勢を崩さずにまっすぐ自分を見返している。
「…分かった、娘はくれてやる」
 そう言った敬史に、妻があからさまにほっとした笑みを浮かべるのが見えた。
「その代わり」
 そう続けた敬史に、初めて目の前に座る男の視線が揺れる。
「一度でいい。奪って行く貴様を、殴らせろ」
 敬史の言葉に、男、陣内理一は少し驚いたように目を見開き、ゆっくりと笑みを浮かべた。
「それで許していただけるなら」
 敬史は徐に立ち上がると、無駄に上背のある男の前に立つ。握りしめた右の拳を、自分を見上げてくる相手の頬へと思い切り振り下ろした。

 明日は長野にある陣内家へ挨拶にいくという娘とその未来の夫を見送って、敬史と妻はダイニングテーブルへと座り込んだ。
 ソファに寝そべった長女が雑誌をぱらぱらとめくりながら口を開く。
「まさか父さんが本当に殴るとは思わなかったわよ」
「ホントにねぇ」
 隣の椅子に座った妻も、湯のみを傾けながら苦笑する。それにむっとした視線を向けた敬史は、痛む右手をこらえつつ、ばさりと音をたてて新聞のページを繰った。
「でも、陣内さん、ちっとも動かなかったわねぇ」
 感心したように言う妻に、殴られた理一の姿を思い出す。振り下ろした拳が左の頬を打ったというのに、伸ばした背筋は少しも揺れはしなかった。どころか、少しだけ左の頬を赤く腫らして、深々と頭を下げた理一は晴れやかに笑ったのだ。その顔と、ほっとしたように笑みを見せた娘の姿。さらには、その左手の薬指にしっかりとはめられた指輪を見てしまえば、もはや何を言う気も失せてくるというものだ。
「まぁ、現役自衛官だっていうしねぇ。鍛え方が違うんじゃないのぉ?」
 長女の言葉に、敬史はぎょっとする。
「公務員って…!」
「あらまぁ…」
 敬史は、やはり隣で驚いたような声を上げる妻と顔を見合わせた。
「…そういう情報は、事前にリークしておいてくれ」
 小さく呟いた父親の声に長女は驚いたように顔を上げると、次の瞬間、弾かれたように笑いだした。憮然とした表情で右手をさする父を指差して。






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