佐久間に促されて、健二は名残惜しそうに蓮の花を振り返りながら宮へと足を向けた。
一足先に宮へと着いた理一は、大きく開けた門の側に颯をつなぐと、一礼して門をくぐった。ふわ、とどこからともなく先触れの童が二人現れ理一を先導する。案内された先は、小さな院子を臨む東屋だった。白亜の柱に支えられた青い上薬の甍が柔らかい光を弾いている。
東屋に置かれた白い円卓には椅子が四脚用意されている。そのうちの一つに腰掛けた老齢の女性がおっとりと笑むのに、理一は軽く会釈をした。
「お久しぶりです、乙姫」
「先代が身罷られた時にお目にかかって以来ですから、ほんに久しい」
扇子で口元を隠して言う乙姫に、理一は苦笑する。
いつも、乙姫を前にすると理一は無意識に緊張する。それは、乙姫が亡くなった先代竜王である祖母に似ていると思うからだ。だが、他の誰に聞いても、乙姫を先代と似ていると言うものはいない。実際、佐久間にも「ふくよかな感じの女の人でしたよ。先代というよりは万里子さんの方が似てるかも」と言われた。乙姫は見る者によって姿が違う。見る者に慕わしい姿で現れると聞いたのは随分前だったが、本当に、見る者によって姿が違って見えるのかと驚いたものだ。
「突然申し訳ごぜいません」
「南の当代は、随分と難しくていらっしゃるから」
ほほ、と笑った乙姫は理一に向いの椅子をすすめた。勧められた椅子に腰掛けながら理一は苦笑する。
「失礼ながら、伺った理由は…?」
「存じております。陸の者、でしょう?」
「…ええ」
理一の横にふわりと白い花が舞って童が一人姿を現した。音もなく茶具を操り茶を煎れると、理一の前に湯のみを差し出す。次の瞬間、またふわりと白い花が舞って童の姿は消えた。
「乙姫のお力で海の者と成せるか否か、まずはお教えいただきたい」
乙姫は理一の言葉に初めて逡巡する様子を見せた。
「…あなたの番いと同じ出自だったら可能でした、と申し上げておきましょう」
「…は?」
乙姫の言葉に目を見開いた理一は、思わず間抜けな声を漏らしていた。
「乙姫、それは…」
言い差した理一を扇子の先で止めて、乙姫は小さく口元に笑みを浮かべる。
「連れの方々が、いらしたようですよ」
その言葉が終わると同時に、先触れの童に案内された佐久間と健二が姿を見せた。佐久間が理一の姿を認めて、一瞬、ほっとした表情を浮かべるのに笑みを返してやる。
佐久間と健二にも同じように席をすすめた乙姫は、健二をじっと見つめて少しだけ眉を寄せた。見ようによっては痛ましげにも見えるその表情に、思わず理一と佐久間が顔を見合わせる。
「…随分、無理をなさいましたね」
軽いため息とともに紡がれた言葉に、健二は戸惑ったような表情浮かべた。
「それほどに、宝珠をお望み?」
続いた言葉に健二の肩がぎくりと揺れる。健二の返答を待つかのように、じっと見つめてくる乙姫に健二は居住まいを正した。そして、はっきりと頷く。
「…はい」
「…そうですか」
乙姫は小さくため息をつくと、扇子で卓を一つ打った。合わせるように、一人の童が紫の布に包まれたものを捧げ持って現れた。乙姫はその包みをとくと、乳白色に輝く首飾りを取り上げる。それに顔色を変えたのは理一だった。
「乙姫、それは…!」
「お気付きになられました?」
はんなりと笑った乙姫に、佐久間と健二は顔を見合わせてきょとりとする。
「南の、先代様の牙です」
言われた言葉に、理一が息を飲む気配がする。
「なぜ? と、思われているのでしょう?」
乙姫の言葉に、理一は堅い表情のまま頷いた。
「これは、生前、先代様手ずからわたくしにくださいました。次代の為に、と仰って…」
乙姫は目を伏せて、己の手の中にある牙を大事そうに一撫でした。その手つきは、まるで愛おしいものに触れるかのようで、理一は思わず目を細める。
「先代様は聡明な方でしたからね。幾重にも呪をかけられておられたのです。残し行く者のために」
乙姫はかすかな衣擦れの音を立てて立ち上がると、健二の首にそっとその牙の首飾りをかけた。
「これは貴方に。ああ、玉も身につけておいでね。良かったこと」
健二の胸元で淡く光るその首飾りに乙姫は満足そうに笑うと、訳も解らず、首飾りと乙姫とを交互に見る健二の手をそっと握った。健二の肩がびくりと揺れて、乙姫の顔を仰ぎ見る。
「宝珠になれるかどうかは貴方次第。これはその一助にすぎません。けれど…」
健二の、緊張にまみれた顔に乙姫は軽く笑う。次いで言われた一言に、健二も小さく笑みを浮かべた。
「大丈夫、貴方になら、できますよ」
乙姫の宮を退出し、颯に騎乗して帰路につく。理一は乙姫に言われた言葉を反芻していた。
帰り際、健二と佐久間が退出した東屋で、理一は乙姫に呼び止められた。
「あの方を海の者にすることは、わたくしにはできません。海には海の道理があるように、陸には陸の道理がある。わたくしにはその道理を超えることができない」
一旦言葉を切った乙姫は、眉間に深い皺を刻んだ理一に小さく笑う。
「でも、ご安心なさいませ。あの方にはその道理を超える力がお有りになる。道さえ見誤らなければ、きっと、望むようになるでしょう」
禅問答のようだった、というのが理一の偽らざる心情だ。乙姫がああ言った以上、健二には陸の者のまま、宝珠になってもらわなければならないという事なのだろう。ただ唯一にして最大の収穫は先代の牙だ。玉とは比べ物にならない呪力を秘めているあの牙があれば、健二の海での猶予も延びるに違いない。
視線の先、佐久間と牙を見ながらぽつりぽつりと会話をしている健二を盗み見る。
佐久間とは出自が違う、とはどうゆうことだろうか。陸での出身地が違う、などという単純なことではあるまい。それとも、それも健二が宝珠になれば解ることなのだろうか。
理一は物思いを振り切るように一つ頭を振ると、手綱を握る手に力を込めた。
颯に騎乗して駆けることしばし、そろそろ南の領海に入ろうかという頃、健二が突然口と鼻を袖で覆った。
「健二? どうした?」
佐久間が覗き込んだ健二の顔は紙のように白い。額には脂汗が滲んでいる。
「健二?!」
「…さく、ま」
「どうした?! どこか痛いのか?!」
おろおろと健二の肩を掴む佐久間に、健二が小さく呟く。
「血の、臭いがする…」
健二の言葉を聞いた理一の眉間に深い皺が寄る。そして、颯の進行方向、遥か先にあるはずの竜宮へと目を凝らす。次の瞬間、息を飲んで目を見開いた。
「…っ、鯱か…!」
理一の言葉に振返った佐久間も、同じように前方へと目を凝らす。だんだんと近づいてくる竜宮の紅の甍に、霞のように煙がかかっている。所々に黒く浮かぶのは鯱の死体と、衛士の死体だ。
「…そん、な」
思わず呟いた佐久間に、理一が言う。
「佐久間くん、颯を御せるね?」
「理一、さん?」
眉を寄せて自分を見上げる番いに、理一は笑ってみせる。
「有事だよ」
言うなり理一は手綱を佐久間に握らせると疾走する颯から飛び降りた。
「理一さん!」
慌てて颯の手綱を握り直しつつ、佐久間は遥か後方へ流れていく理一を目で追う。と、次の瞬間、紅の鱗を煌めかせて、一頭の竜が轟音とともに颯の横を駆け抜けていった。すれ違う刹那、竜がちらりと流した視線に、佐久間はほっと肩の力を抜く。
「…さくま。あれが、りいち、さん?」
変わらず、白い顔をした健二が、竜の姿を目で追って呆然と呟く。
「うん。綺麗だろ?」
佐久間の言葉に、健二が小さく頷く。と同時に健二は、やはりあの鱗をどこかで見たと思った。もっと深い紅の輝きを、確かに健二はどこかで見ている。
「健二、しっかりつかまってろ。颯、頼むよ」
首筋をぽんとたたいた佐久間に応えるように、颯がくおんと声をあげる。手綱が空を切る。一際早く駆け出した颯は、まっすぐに竜宮へと向かって飛んだ。
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