「あー、ホント。あれが甥っ子なのかと思うと情けなくて涙が出てくるわ。あの台詞、聞いてたのが父さんや聖美だったら確実に半殺しだったわね」
書庫の隣の小部屋で佐久間の煎れた茶を飲みつつ直美が毒づく。
「確かにねー。まーだあの失敗引きずってたのね、あの子」
「先代が亡くなる前だから、もうかれこれ五十年は経つだろ?」
佳主馬も案外粘気質だよね、という理一に、佐久間が苦笑する。
「あーっ、もうっ! ほんっとに、何であんなに卑屈で被害妄想強いかなぁっ!!」
「まぁまぁ、夏希さん、落ち着いて…」
未だ怒りのさめない夏希を宥めつつ、佐久間も湯のみを持って理一の隣の席へと座る。
「それもですけど…」
ぽつりと呟いた佐久間に、四人の視線が一斉に集まる。思わず首を竦めた佐久間の肩を理一が軽く抱き寄せた。
「…健二くんのこと、だね」
理一の言葉に湯のみを抱えた佐久間がこくりと頷く。一同の眉間に皺が寄った。
「佳主馬がダメなら、いっそ東か西か、どっちかの竜王に海の者にしてもらうってのはどう? 北はうち、交流ないから無理だけど」
直美の言葉に、理香が肩を竦める。
「流石に無理でしょ。よしんば、できたとしても、そしたら健二くんは東か西かの竜宮に帰属することになるわよ?」
宝珠になれる可能性のある存在をみすみす他所に渡してなるものか、という心情が滲み出た理香の台詞に、理一と佐久間も苦笑を浮かべながら小さく頷く。
「それに、東の竜王はうちと同じで代替わりしたばかりだ。まだ宮中も安定してないだろう」
理一の言葉に「やっぱり無理かぁ」と直美が頭を抱えた。
「万里子おばさんは? 代行者でしょ? 王の権限も代行できないの?」
夏希の言葉に理一が首を振る。
「無理だよ、夏希。母さんはあくまでも立場を代行してるにすぎない。そこまでの権限はないよ」
「だぁあーっ、もう! 自分で拾ってきたんなら自分でなんとかしなさいよね! 佳主馬のやつ!!」
叫んで理香がぐしゃぐしゃと髪を掻きむしる。揃って頭を抱えたところで、ふっと顔を上げた佐久間がぽつりと呟いた。
「…乙姫、は?」
全員の視線が佐久間に集まる。
「…そうか。乙姫なら」
「四海に属さないもう一つの竜宮の主。権限は王と同じはずよね」
直美と理香が揃って指をぱちんと鳴らす。夏希の渋顔がだんだんと笑みに変わっていく。
「緩衝領域だから、他の竜王から横やりが入ることもないし、帰属先もないはずだ」
理一の言葉が決定打とばかりに、夏希ががたんと椅子を蹴立てて立ち上がる。
「そうと決まれば善は急げよ! あたし健二くん連れてく!」
「ちょい待ち」
満面の笑みで部屋を出て行きかけた夏希の襟に、指をかけて椅子に引き戻した直美がため息をついた。
「あんた、それ、健二にどう言うつもり?」
「そりゃ、乙姫だったら海の者にできるから行こうって…」
夏希の台詞に、理香と理一と佐久間が揃って口元を引きつらせた。
「…夏希さん、それはちょっと短絡的というか…」
「海の者になることを拒んでるんだから、真正面から言っちゃったら行かないって言うに決まってんでしょ」
「夏希、権謀術作を学べとは言わないけど、もう少し策略とかを考えてもいいんじゃないかな…」
三者三様の言葉に夏希がむくれる。
「えー、じゃあどうするのよー」
夏希の言葉に口元に手をあて少々考え込んだ理一が、何を思いついたのか、にっこりと笑う。
「とりあえず、僕と佐久間くんで花見にでも誘ってみようか」
「「「は?」」」
疑問符を浮かべた三人に対して、佐久間は満面の笑みを浮かべる。
「そうですね。健二、竜王の蕾が産まれる蓮池を見てみたいって言ってたし」
佐久間の言葉に、残り三人がなるほどと手を打つ。
「明日あたり、行こうね」
楽しみだな佐久間くんと出かけるの、と続けた理一に、理香がげんなりとため息をついた。
「理一…。あんた、単に自分が逢い引きしたいだけなんじゃないの?」
直美の呟きに、夏希も半眼で頷く。にこにこと笑みを浮かべたままの理一の隣で、佐久間だけが顔を赤くして居心地悪く縮こまった。
健二の元に佐久間が顔を出したのはまだ夜が開けきる前のことだった。夢と現の境界線を彷徨っていた健二は、かるく揺り起こされる感覚と名を呼ぶ聞き慣れた声に現実へと意識を浮上させた。
「さ、くま…?」
「健二、起きられるか?」
「…う、ん? 起きられる、けど、どうしたの? こんなに早く…」
佐久間に手をとられた健二はゆっくりと起き上がった。紗を通して入り込む光はまだ朝早い時刻であることを告げている。不思議そうに瞬きを繰り返す健二に、佐久間はいたずらっぽく笑った。
「竜王の蕾が産まれる蓮池、見たいって言ってたよな、健二」
「う、うん。言った、けど…」
「連れてってやる」
「え…」
「夏希さんには許可もらってる。体調が大丈夫そうなら遠出してもいいって」
佐久間の言葉に健二は目を見開いたまま固まっている。
「行くか?」
佐久間の言葉に、健二は満面の笑みを浮かべると大きく頷いた。
身支度を整えると、佐久間に付き添われて健二は内宮から院子を抜け厩へと向かう。そこには、竜達が騎乗する騎獣がつながれている。その厩の前、長身の人影が背に翼を持った大きな茶色い犬のような獣に鞍をかけていた。健二と佐久間の姿に気付くと顔を上げて、小さく笑みを浮かべる。鐙の位置を確認してから軽く獣の首筋を叩くと、こちらへ向かって大股に歩み寄ってくる。
「健二くんだね。初めまして、でいいのかな。理一です」
「え、あ、は、はじめ、まして…」
「うん、思ったより顔色はいいね」
健二の顔を覗き込んで言った理一に、佐久間も笑う。
「これなら大丈夫でしょ?」
「そうだね」
理一と佐久間の会話に健二がきょとりと首を傾げた。それには応えず、理一は「そこにいて」というと茶色い獣へと歩み寄る。
「健二くんは騎獣に乗ったことはないよね?」
「はい…」
手綱を引いて戻ってきた理一の言葉に、健二はこくりと一つ頷いた。
「この子が僕の騎獣。颯」
理一に名を呼ばれた獣が、甘えるようにその一抱えもありそうな頭を理一の肩へとすりつける。歩み寄った佐久間が「颯」と呼ぶと、理一の時よりも嬉しげな声を上げて佐久間の胸へと頭をすりつけた。
「ご覧の通り、僕よりもすっかり佐久間くんに懐いちゃってるんだけどね」
理一が苦笑していうのに、健二も小さく笑う。
「颯はおとなしいから、健二もすぐに仲良くなれるよ」
名前呼んでみ? という佐久間に、健二は間近に寄った獣の顔をおそるおそる見上げる。
「…は、やて…?」
そっと手を伸ばして、小さく名を呼んだ。首を屈めた獣は健二の指先に鼻先を寄せてふんふんと匂いをかぐ。と、その指先に頭をすりつけるように寄せてきた。思いのほか強い力に、思わずよろけた健二を隣に立っていた佐久間が支える。
「…思ったより、毛が柔らかいんだね」
慣れたのか、耳の下まで撫でながらいう健二に、佐久間と理一は顔を見合わせて笑う。
「さて。颯も健二くんを覚えたところで、そろそろ行こうか」
佐久間に手伝ってもらって鐙に足をかけた健二は、鞍の一番前へと座らされた。続いて佐久間、最後に理一が乗り込む。
「しっかり掴まっててね」
言うなり健二の耳元で手綱が鋭く空気を裂く。その音に合わせて颯の羽根が大きくしなった。厩の前に広がる草地を獣が駆けること数歩、ひときわ強くぐんと羽根がしなった次の瞬間、ふわりと三人を乗せた巨体が浮き上がる。あっという間に獣は宙へと駆け上がり、振り返った先、光を弾く竜宮の甍はすでに掌程の大きさになっていた。
流れるように景色が飛び去って行く。かなりの早さで海を渡っているはずなのに、健二は顔に当たる風が緩やかなことを不思議に思う。そう佐久間に言えば、佐久間は小さく笑った。
「騎獣の回りには竜の気が巡ってるんだと。俺も詳しくは解らない」
そういうものなのかと頷いた健二に、理一のくつりと笑う声が聞こえる。
「本当はね。颯に騎乗するよりも僕が直接運んだ方が早いんだけど、乙姫の宮のある緩衝領域に竜の姿で入る事は禁じられてるんだ」
早く連れてってあげたいんだけど申し訳ないね、と続けた理一に、健二は慌てて首をふる。
「いえ、そんな!」
「でも、今度見せてもらえば? 竜の姿。綺麗だぞ〜。南の竜は、みんな鱗が深い紅でさ」
「そうなの?」
「こらこら、佐久間くん」
竜の姿なんて有事の時でもなければしないよ、と苦笑する理一に、佐久間も流石に言いすぎたと思ったのか小さく謝罪する。
「紅、なんですか?」
「ん?」
「皆さんの鱗の色」
「ああ、南の竜はね。東西南北、それぞれ、鱗の色は違うんだ。北は玄、東は蒼、西は白。それぞれの貴色が鱗の色になってる」
「そうなんですか…」
理一の言葉に健二は小さく首を傾げた。
「どうかしたか?」
佐久間が不思議そうに聞くのに、健二は軽く目を閉じて何かを思い出そうとしている。
「僕、どこかで、その色を見た、ような、気がする…」
健二の言葉に佐久間と理一は顔を見合わせた。若干、動揺の色を浮かべた佐久間に、理一は一つ頷くとことさら明るく言った。
「健二くん、見えるかい? あれ」
「え?」
理一が指差した方を見た健二は軽く目を見開く。視線の先、白く陸のように見えるものが広がっている。そしてその中央、こんもりと茂る緑の合間に、青い甍が光を弾いているのが見えた。
「あの白い陸の周囲が、乙姫の海なんですか?」
健二の言葉に、佐久間がふふっと小さく笑う。会話を交わす間にも、その白い筋はどんどんと近く、大きくなっていく。緑の間に見える甍の波の美しさもはっきりと見える程になった。
「あれが蓮だよ」
「え?」
佐久間の言葉に、健二は驚いた顔で振り返った。目を見開いたままの健二に、佐久間は軽く笑う。
「行ってみればわかるよ」
佐久間の声と同時に、ふわ、と一旦浮く感覚がして、颯の翼が大きくしなる。ばさりと一度音をたてて、颯の身体は白い蓮の海へと舞い降りた。
騎乗した人間が降りやすいように身を伏せた颯の背から、佐久間の手を借りて降りる。健二は自分が足を降ろした先が蓮の花の上だったことに驚いた。
「これ…」
「解っただろ? 乙姫の治める海は、白い蓮で埋め尽くされてるんだ。その宮さえ、蓮の花の上にある。木に見えるあの緑だって、実は蓮の葉だ」
佐久間の言葉に驚いて振り返った健二の視線の先、確かに宮を囲むように茂っている葉は、よくよく見れば巨大な蓮の葉だ。
その時、一陣の風が宮に向かって押し寄せた。ざわりと、蓮の花が音もなく揺れる。
「ふわぁ…!」
健二は目前に広がった白い波に目を輝かせた。
「見事だろう?」
颯の手綱を握ったまま理一が言うのに、健二が大きく頷く。
「これが、竜王の蕾が産まれる、乙姫の宮の蓮池…」
理一は佐久間に目配せをると、「先に謁見の間に行っているから」と言いおいて、颯を引いて宮の方へと歩いて行った。
その背を見送って、佐久間は健二へと視線を戻す。佐久間の視線の先、細く頼りない背中がじっと白い花の海を見つめている。
「竜王の蕾も、白いのかな…」
ぽつりと呟いた健二に、佐久間は静かに歩み寄る。ぽんと肩に手を置いて、小さく笑った。
「さあな。残念ながら、俺も蕾を見たことはない。そもそも、この海域には簡単には入れないんだ。乙姫が許した者にしかこの蓮は踏めない」
どんな不思議でか、乙姫には宮を訪れる人がわかるという。そして、その日、その時に会うべき者にだけ会う。故に、健二達が蓮池に降りられたということは、この日、この時に乙姫に会うことは必然であったということだ。
「さて、行こうぜ。乙姫様とご対面だ」
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