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佳主馬はため息を一つつくと、綴じられた紙の束を文机の上に放り投げた。傍らで同じように紙の束を繰っていた理一が、顔を上げるとひょいと片眉を上げる。
「…終わったのかい?」
「確認してみれば?」
憮然としたもの言いに、理一は肩を竦めると繰っていた頁に栞をはさみ書棚へと置いた。佳主馬の放り投げた束を手にとり、ぱらぱらと頁をめくる。
「一応終わってはいるようだね」
「…。」
他にも数冊、同じように文机に積み上げられた冊子を手にとると、とん! と音をたてて揃えた。
「…で?」
「…なに?」
「今度は何が気に入らない?」
「その言い方、やめてくれる?」
理一の言葉に佳主馬の眉間に深い皺が寄る。睨み上げる目に滲んだ光は凶暴なものだったが、理一は意に介した風もなく佳主馬を睨み降ろした。
「佐久間くんを、健二くんの話し相手にと言ったのは佳主馬だろう? 彼を、午後だけとはいえ内宮に派遣する弊害は事前に進言していたはずだよ?」
「解ってる!」
理一は癇癪を起こした子供のようにぷいと横を向く佳主馬に深いため息をついた。
「なら、職務を全うしなさい。与えられた義務を果たしてこその権利だ」
理一の言葉に、佳主馬はぎりと唇を噛み締めると、机の上に積み上げられた冊子を手にとった。
「…健二くんは、宝珠になることを諦めてはいないようだね」
その様子を見てため息を一つついた理一は、棚に置いておいた冊子を手にとり栞を挟んだ頁を開きながらぽつりと呟く。頁を繰る佳主馬の手が一瞬止まったが、何事もなかったかのように、また頁を繰り始めた。
「陸のことを慮っているんだろうが、それよりまず自分の事を考えた方がいいだろうに。そろそろ、先代の呪力でもあの身体を保つことは難しくなってきているはずだ。佐久間くんの話だと、寝込むことも増えたらしいしね」
視線を冊子から逸らすことなく呟く理一に、佳主馬もまた、視線を向けることなく頁を繰る。
「いいのかい? このままだと、存在自体を失うことになるよ?」
理一の呟きに、佳主馬は頁を繰っていた手を止めると、その冊子をばさりと文机に投げつけた。
「さっきからぶつぶつと! 何が言いたいのさ! 言いたいことがあるなら、はっきり言いなよ!」
理一は開いていた冊子を閉じると静かに文机に置いた。
「お前が宝珠を選ばないと決断したことで、命を落とす者が目の前にいる。どんな気分だい?」
容赦のない声と言葉に、佳主馬の肩が一瞬跳ねた。
「確かに先代は宝珠を持たなかった。だがそれは晩年のこと、事故で宝珠を亡くしてからのことだ。永年の徳があの人にはあった。だからこそ、その治世は些かも揺らぐことがなかった」
理一は一旦言葉を切ると、ゆっくりと膝の上で手を組んだ。
「未だ雛のまま、成獣ですらないお前に、先代と同じことができると思っているのか? 身の程を知りなさい」
「…っ! やってみなきゃ…!」
「やってみるまでもない。結果はすでに出ている。ここ一年で深海からの侵攻が何度あった? 贄を送らなければならないほど、陸が疲弊しているのは何故だ? 全てお前に根のあることだろう?」
理一の言葉が冷たい鞭のように佳主馬を打つ。だが、佳主馬はそれに反じるだけの言葉も力も持っていなかった。殺気を込めた目で睨み見るのが精一杯だ。
理一はそんな佳主馬に深くため息をつくと、束ねた冊子を手に立ち上がる。
「よく考えなさい」
言いおいて部屋を出て行った理一を、佳主馬は歯噛みしながら見送った。
「…好きで」
誰もいなくなった室内に、佳主馬の小さな呟きが落ちる。
「好きで王になったわけじゃない…」
産まれ落ちた時に蓮の花を握っていた佳主馬は、その生の瞬間から王としての重責を一身に背負わされた。
──王、次代の王
無言の圧力に佳主馬は竦んだ。
先代が存命の時はまだ良かった。その呪力が佳主馬の楯になってくれた。しかし、先代の呪力が弱まるにつけ、いよいよ次代に、という言葉ない期待が佳主馬にのしかかった。
そして、あの日。
己の老い先が短い事を憂慮した先代に呼び出された佳主馬は、宝珠を選ぶように言われたのだ。未だ雛ではあるが、その呪力はすでに次代の王に足るものがあると。
佳主馬は素直に先代の言葉に従った。この、静謐でいながら苛烈な曾祖母は、決して物事を見誤ったりしない。だから、曾祖母の選んだ宝玉のうち、深海でも珍しいという青珊瑚を選んだ。
「私の宝珠」
曾祖母に言われた通り、佳主馬はそう青珊瑚に呼びかけた。瞬間、手の中で淡い光を放っていた貴重な宝玉は砕け散った。
呆然とする佳主馬の横で、曾祖母もまた目を見開いたまま動かなかった。しばらくして、ふっと息をつくと、曾祖母は軽く笑みを浮かべて佳主馬に言った。
「気にするでないよ。物事には対がある。その青珊瑚はお前の対ではなかった。ただそれだけのことなんだからね」
佳主馬は頷けなかった。曾祖母の選んだ宝玉が自分を拒否した、それが海の意思だと思った。
それから、佳主馬は動けなくなった。宝珠を選べという周囲の言葉にも、決して首を縦に振らなかった。もしまた宝珠を選んでも海に拒否されたら、自分には王の資格がないということの証明になりはしないか。そう思ったら、動けなくなった。
それならば、宝珠を持たずとも武をもって海を治めればいい。宝珠を持たずとも徳をもって領海を治めた曾祖母のように、己の力のみによって王になればいい。
佳主馬はそう誓った。
だから、と、佳主馬は思う。
──あの陸の者を宝珠にはしない。傍近くに置くために海の者にはしても、決して宝珠には選ばない。
きり、と佳主馬は唇を噛み締める。
──あの存在が、青珊瑚と同じように砕け散る様は、見たくない。
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