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健二は一つため息をつくと硯に筆を置いた。初めて告げ鳥の声を聞いてから、七日程が過ぎていた。
あの後、子供達と団子になって寝屋で待つ事、ほぼ半日。赤い甲冑を纏った夏希が抜き身の剣を持ったまま東屋へと姿を見せた。健二と子供達の無事を確認して、ほっとしたように笑みを見せる。
「佳主馬に、無事を確認してきてくれって言われたんだけど。大丈夫だね」
健二は夏希の笑みを見ながも、血の気が引いて行くのを止められなかった。赤い甲冑は所々に飛んだ深い血の色を見せつけていたし、抜き身の剣には流れる血油が生々しいばかりで。何よりむせ返るような鉄錆の匂いに、健二は目の前がくらりと揺れるのを感じた。
「健二くん?!」
慌てたような夏希の声を聞きながら、健二はそのまま意識を飛ばしてしまったのだ。目が覚めてから、夏希や子供達に盛大に呆れられ、随分と気恥ずかしい思いをした。
あれから佳主馬と顔を合わせていない。そもそも、この宮に健二が来てから見知った人は子供達を入れても両手で足りる。佳主馬とは偶然居合わせたから見知っただけで、引き合わされたわけではない。当代の竜王へも、助けてくれたお礼方々、一度会いたいと申し入れてはいるが、それも叶っていなかった。
──陸の者
東屋の入り口に常に控えている衛士が話していたのを小耳に挟んだことがある。海の者にとって、陸の者は凶兆なのだと。海の者になる気がないのなら、災いがおこる前にさっさと放逐してしまえばいいのに、と。
健二は文机の上に広げた書きかけの経を見つめる。竜宮には当たり前だが写経の習慣がなかった。無理を言って硯と紙を揃えてもらったが、経と向き合っても胸に巣食った靄は晴れてはくれなかった。
宝珠を語った佳主馬の口調が、声が、耳から離れない。まるで、宝珠を憎んでいるかのような佳主馬の言葉に、知らず健二は自分の腕を抱いていた。そわりと寒さが上がってくるような気さえする。
その時、入り口の方がふいに騒がしくなった。夏希ともう一人、年若い男の声がする。何事かと顔を上げた健二が入り口を振り返った時、夏希に伴われて健二と同じ年頃の青年が顔を出した。
「健二くん、具合どう?」
「血ぃ見て倒れたんだって?」
口々にそう言うのに健二は一つ目を瞬いて二人を見上げる。
「…まだ具合悪いのか?」
微動だにしない健二に青年は訝しげな表情を浮かべると、健二の顔を覗き込み目の前で手をひらひらと振った。
「さくま、たかし、さん?」
「そ、健二くんと同じ、陸の人」
「厳密にいうと、『元』陸の人、だけどな」
健二は向い側に座った青年をまじまじと見つめた。背格好は自分とほぼ変わらない。屈託なく笑う様は好青年といってもいいだろう。だが、村ではついぞ見たことのない、明るい淡い色の髪と目を持っていた。同じ村の出身ではなさそうだと、健二は胸の内で肩を落とした。もっとも、健二もあの村の出自ではないのだが。
「健二くんの体力もだいぶ回復してきたみたいだし、話し相手になってもらおうと思ってね」
そう言って笑う夏希に、佐久間と紹介された青年は小さく笑みを浮かべた。
「一応経験者だから。それなりには相談にのれることもあると思う」
その言葉に健二ははっとする。
「よ、よろしくお願いします!」
「…や、そんな改まらなくても…」
床に手を付いて深々と頭を下げた健二に、佐久間は口元に引きつった笑みを浮かべた。
とりあえず、自己紹介がてら話でもしてみたら、という夏希の言葉に従い、健二と佐久間は院子に張り出した東屋へと移動した。夏希は用があるからと、早々に席を外している。
「じゃあ、佐久間さんも贄に…?」
「いや、俺の場合は単純に『口減らし』。あー、それと。佐久間でいいよ。さん付けとかされると、なんか、背中が痒くなる」
そういって笑う佐久間に、健二も笑みを返す。
「じゃあ、お言葉に甘えて…」
「うん」
「さっき、『元』陸の者って言ったよね? 今は、もう、海の…?」
健二の言葉に佐久間は軽く頷く。
「先代竜王の時にな」
「じゃあ、もうこの宮で暮らすようになって長いの?」
「ここにいると年を数えることをしなくなるからなぁ」
健二の言葉に、佐久間はがしがしと髪をかき回した。柔らかそうな淡い色の髪が手の動きに合わせてふわふわと揺れる。
「あー、だいたい、八十年? くらい?」
「は、はちじゅう、ねん…?」
佐久間の言葉に健二はあんぐりと口を開ける。そんな健二に佐久間は小さく笑った。
「八十年つったって、竜の寿命に比べたらほんのわずかなもんだろ」
「そ、う、なの?」
うん、と頷いた佐久間に、健二が長いため息をつく。
「…だからか」
「何が?」
健二の呟きを聞きとがめた佐久間が問うのに、健二は佳主馬から聞いた言葉を繰り返した。宝珠は人には考えも付かないような長い年月を王と共に生きる、ということを。
「あー。健二、お前、勘違いしてる」
「え?」
「確かに、竜の寿命は長い。お前が今面倒みてるあのチビ達だって、もうお前の倍以上の月日を生きてるだろ? それが竜って生き物だ。でも、それに比べても竜王は別格だ。竜に比べてもまだ長い寿命を持ってる。その王と共に年月を生きるというのは、確かに途方もないことだよ」
佐久間の言葉に健二はきょとりと一つ瞬いた。
「…え? あの、え?」
「どうした?」
「チビ達って、あの、真緒ちゃんとか、慎吾くん、とかの、こと?」
「あぁ、うん」
頷く佐久間に、健二は呆然とした視線を向けた。
「え、あの子達も、竜?」
「…知らなかったのか?」
健二の様子に佐久間も唖然とした表情を浮かべる。
「この宮に住んでるのは、みんな竜だぜ?」
佐久間の言葉に、健二は目を見開いたまま固まっている。
「あー、そうか。夏希さん達には当たり前のことだからなぁ。失念しちまったんだな」
ぽりぽりと額をかいた佐久間は、何に対してか一つ頷くと、健二に向き直った。
「うん。この宮に住む者はみんな竜だ。仕えてる衛士や女官は普通の海の者だけどな」
きょとんとした健二に気付いて、佐久間が小さく笑う。
「あぁ、健二はまだ外宮に行った事ないから知らないか。この竜宮には竜達が住むこの内宮と、領海の諸政を行うための外宮があるんだ。さらに竜王と宝珠だけが住む奥宮があるんだけど、今は宝珠がいないから閉じられてる。外宮は施政機関だから、当然働きに来てる海の者もいるわけ」
へー、というため息ともつかない吐息が健二の口から漏れるのに、佐久間は笑みを浮かべる。
「内宮を仕切ってる万里子さんには?」
「あ、うん。会った事ある」
佐久間の言葉に、健二はおっとりと話すふくよかな女性を思い出す。夏希に引き合わされた時も健二の身の上を案じてくれる言葉が暖かかった。
「優しそうな人だっただろ? でも怒ると怖いんだぜ〜」
おどけて言った佐久間に、健二は軽く笑った。女性は大概怒ると怖いものだ。
「外宮はその万里子さんの二人の子供が仕切ってる。他にも万里子さんの弟にあたる人とか、その息子さんもいるけど」
健二は分からないながらも小さく頷く。
「ちなみに、万里子さんは先代の娘にあたる。今はまだ当代が宝珠を持たない雛だから、実質、彼女が竜王代理みたいなもんだ」
佐久間はそこまで指折り数えるように言うと、健二の顔をみて苦く笑った。
「…って、一遍に言われても覚えきれないよな。とりあえず、先代竜王を頂点にした一族がここに住んでるってこと」
「当代の竜王も?」
「うん、先代にとっては曾孫にあたる」
「…そうなんだ」
視線を俯けた健二に、佐久間は小さくため息をつくと、ことさら明るい声で言った。
「今日はこのくらいにしとくか。あんまり根詰めても良くないしな」
すっと立ち上がった佐久間に、健二は慌てて居住まいを正した。
「あ、ありがと」
「ん?」
「色々、その、教えてくれて」
健二の言葉に、佐久間はにっと笑う。
「また来るよ。ああ、夏希さんのお許しが出たら外宮に来るといい。俺、昼前は大概外宮にいるから」
じゃあな、と手を挙げて、佐久間は出ていった。
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