1
養父の申し訳なさそうに歪んだ顔が頭から離れない。
「すまん。すまんな、健二」
何度もそう繰り返す養父の背が、いつのまにか小さく丸くなっていたことにその時気付いた。
健二の住む村は小さな漁村だった。農地は背後に聳える山までのほんのわずかしかなく、海が荒れ、漁に出られなければとたんに餓えが蔓延するような村だった。人々は海を統べる龍神に豊漁を祈り、秋にほんの少しの実りをもたらす山に祈りを捧げて、細々と暮らしていた。
そんな村で、ここ数年、不漁が続いた。それどころか、夏になっても天候が安定せず、作物までもが不作続きとなった。蓄えはあっという間に底をつき、村外れの墓地に卒塔婆が乱立した。
貧しい村だ。龍神の加護と山の加護がなければ生きてはいけない。長老は早々に決断を下した。
「龍神様に贄を捧げる」
昔から、海が荒れ不漁が続いた時には海に贄が捧げられてきた。それは、多分に『口減らし』の意味合いもあったのだろう。若い、むしろ、年端も行かない子供が捧げられる事が多かった。
だが、今回はそういった子供を捧げようにも、肝心の子供の数が激減していた。餓えはまず力の弱い子供から先に攫っていったからだ。流石に、残り少ない貴重な次代の担い手をこれ以上減らすわけにはいかない。
そこで白羽の矢が立ったのが健二だった。
健二は村の者ではない。十年程前の嵐の翌日、浜に打ち上げられていたところを助けられた。難破した外つ国の船から流れ着いたのか、助けられた頃の健二は、村の者が使う言葉を話すことができなかった。
子供のいなかった漁師夫婦が自分達の子供として育ててきたが、いよいよ差し迫った状況が、長年同じ村で暮らしてきたはずの健二を『よそ者』として排除させた。
長老の重々しい言葉を聞きながら、健二は粛々と自分の運命を受け入れた。もとより、難破船から流れつきこの年まで生きられたことが幸運だったのだと、そう思えば、村のために命を投げることも道理であるように思えた。
「次の満月の夜、月の道に沿ってお前を沖へと流す。山の頂以外見えなくなったところで、その身を海に投げなさい」
長老の言葉に、健二は一つ頷いた。
細い月がどんどんと姿を大きくして、中天にその真円を描いた夜。健二は長老の言葉通り、小舟に乗せられ沖へと流された。浜に姿を見せたわずかばかりの村人は一様に顔を俯けている。
最後まで、流れる涙を拭うこともせずに健二を見送ってくれたのは、年老いた養父だけだった。
揺れる小舟の上、健二は思い切るように一つ頭をふる。
長老が言った通り、月の落とす一筋の道を追って小舟は沖へ向かった。海原にぽつりと漂う舟から見えるのは、遠く村の背後に聳えていた山の頂のみだ。後はひたすら黒い水面が広がっている。櫂はとうに流されて、陸に戻る手段は既にない。もとより、戻ってはいけないのだったと思い至って、健二は小さく笑った。
小舟の上で軽く手を合わせる。村唯一の寺で詠唱されていた経を一つ唱えると、健二はその身を海へと投げた。
夏が近いとはいえ、夜の海は冷たい。その闇へと身を踊らせたとたん、健二の肌に水の冷たさが刺さった。纏った着物に海の水がまとわりつき、闇の底へ引き込むように重くなっていく。
ごぼりと、吐き出した空気が薄明るい月影に浮かぶ舟底へ向けて昇って行くのを、健二は薄れていく意識の端で追った。
不思議と、苦しくはなかった。ただ、養父の流した涙だけが悲しかった。
その時、暗く陰った視界に、紅に輝く何かが映ったような気がした。それが何か確かめようと頭を巡らせたところで、健二の意識は途切れた。
※ブラウザバックでお戻りください