札師の受難
佐久間はいつものように札師部屋の文机の前に座っていた。少しだけ高い位置にある窓からうっすらと朝の光が差し込んでいる。視線を流して机の上に置かれた携帯を見やる。ゆるゆると伸ばした指でスリープを解除した。表示された時間は、普段佐久間が起きる時間よりも2時間近くも早い。
頬杖をついていた顎をその腕にそってずるずると落とす。そのまま、使い込まれた文机の天板にぺたりと頬をつけた。もう一方の手で頭を抱えて眉を寄せる。顔を伏せて目を閉じた。
昨日は、久しぶりに理一と食事に出かけた。お薦めの和食の店があるからと言われてこの部屋から一緒に出かけて。いつものように食事を堪能した。
理一の案内する店はいつも味が確かで、まずはずれはなかった。どちらかというと家庭料理に近いような、素朴な料理を出す店に案内されることが多い。そして、理一に支払いをさせることを食事辞退の言い訳にしたためか、目が飛び出る程に値の張る店に案内されることもあまりなかった。そんな理一の気遣いもあって、佐久間も肩肘張らずに食事を楽しむことができた。
理一との食事は楽しいと思う。話題が豊富で会話が途切れる事も無い。会話が途切れたとしても、その沈黙もけして気まずいものではなかった。
24という親子程の年齢差を意識することもなく、佐久間は理一との食事を心待ちにしている自分に気付き始めていた。理一の穏やかな笑みに、言い様のない感覚が背筋を駆け上がることにも。
「…………。」
佐久間はころりと寝返りをうって逆の頬を天板にぺたりと付けた。小さく溜息をついて投げ出したままの自分の指先を見つめた。
「佐久間くん」
理一の思いのほか真剣な低い声が名前を呼んで佐久間はきょとりと一つ瞬いた。その、笑いの欠片もない表情に眉を寄せて持っていた箸を置く。
「…なんです、か?」
おずおずと問えば、理一は少しだけ目元を緩めた。猪口を弄びながら視線を俯けて、理一はぽつりと小さく呟いた。
「佐久間くんに、聞いてほしいことがあるんだ」
言われて、佐久間はこくりと息を飲んだ。小さく頷いて理一の次の言葉を待つ。
「僕のことを、どう思う?」
佐久間は理一の言葉に目を見開いた。言葉の真意が解らずに戸惑って視線を彷徨わせる。
「どう、って…」
小さく言えば理一が自嘲気味に口元を緩めた。一つ息を吐いて弄んでいた猪口をテーブルに置く。
「僕は、佐久間くんが好きだ。恋愛の対象として」
言われた言葉に佐久間は思わず目を閉じた。顔を俯けて、膝の上に置いた手をぎゅっと握り締める。理一の声はいつものように穏やかで、それでいて、どこか熱をはらんだように佐久間に絡み付いた。
「おれ、は…」
じっと見つめる理一の視線を感じながら佐久間はこくりと息を飲む。ふっと頭上で笑う気配がして、佐久間はこっそりと顔を上げた。見れば、口元に笑みを刷いた理一がゆっくりと腕を伸ばしてくるところで。
「答えは今じゃなくていいから」
ぽんぽんと軽く頭を叩いた手がまるで猫を撫でるような仕草で佐久間の髪をかきまぜた。
「ただ、考えてみてくれると嬉しいかな」
髪から頬をなぞった大きな手が去って行く。それを少し寂しいと思いながら佐久間は目を伏せた。
それから、いつものように理一は車で寮まで送ってくれたが、いつものような会話はなかった。佐久間も何を言えばいいのか解らずに黙り込んで、理一もまた、ただ黙ってハンドルを握っていた。
去り際、もう一度隣に立った理一は佐久間の頬をその指の背でなぞった。
「おやすみ」
ただそれだけを告げて理一は車へと乗り込んだ。その車のテールランプが赤い流れにまぎれるのを見送って、佐久間は深い溜め息を吐いた。
それが昨夜の事だ。
佐久間は再び寝返りをうってぱたりと顔を伏せた。眼鏡のツルが顳かみに食い込んで少し痛い。佐久間はだらりと下げていた腕をあげて眼鏡を外した。ことりと机に置いて顔を伏せると額を天板にすりつける。少しだけ冷たいその感触が温度の上がった頬に気持ちいい。
佐久間は思い切るようにきつく目を閉じるとがばりと顔を上げて強く頭を振る。今日は日曜日だ。学校が休みの日には修行も兼ねて札師の仕事をすることになっている。
「…仕事、しよ」
小さく呟いて、佐久間は勢いを付けると文机に手をついて立ち上がった。
理香の作業部屋へと顔を出した佐久間は、文机に座って書類を広げる理香に声をかけた。
「おはようございます」
努めて明るく言えば、振り返った理香もにかりと笑う。
「おはよ」
ふと、理香の眉が寄った。
「…佐久間くん、ちゃんと寝てる?」
言われて佐久間はきょとりと瞬いた。苦く笑ってぽりぽりと頬をかく。
「夕べはちょっと…。寝らんなくて…」
佐久間の言葉に理香は眉間の皺を深くする。手に持っていた書類を文箱に入れると深く溜息をついてちょいちょいと佐久間を手招きした。軽く首を傾げながら歩み寄れば、座れと座布団を差し出してくる。その座布団にちょこりと腰を降ろして、佐久間は思わず目を見開いた。
理香の手がぽんと頭に乗せられて、猫を撫でるような仕草で髪をかきまぜてくる。その仕草はまるで、夕べの理一と同じで。思わず頬に昇った朱を隠そうと、佐久間は顔を俯けた。
「気にしなくていいのよ?」
理香の言葉に、佐久間は顔を俯けたままきょとりと一つ瞬いた。
「あの愚弟が何言ったか、まぁ、想像はつくけど。嫌だと思ったらはっきり断っていいんだからね」
続いた言葉にかちりと固まる。暫くそのまま固まって、おそるおそる顔を上げれば、理香は「仕方が無い」と言いたげに口元を歪めて苦い笑みを浮かべていた。
「…りか、さん…?」
小さく名を呟けば理香がにかりと笑う。
「まぁ、あたしとしては、佐久間くんが頷いてくれたらいいなぁとは、思ってるけどね」
それにかぱりと口を開けて、佐久間は理香を凝視する。はくはくと口を開け閉めして、佐久間は一旦引いていた血の気が一気に戻ってくるのを感じた。
「…って、えぇぇぇぇっぇぇぇぇぇえ?!」
思わず叫べば、今度は理香がぎょっとした風に顔を歪めた。
「え、ちょ、なに? 佐久間くん?」
「な、なに、じゃなく、て…! り、りかさん?!」
言葉に詰まった佐久間に理香はぽんと手を打つ。
「あぁ、なんであたしが知ってるかって聞きたいの?」
こくこくと頷く佐久間に理香は深く溜息をついた。
「これでも40年以上あいつの姉やってるからね。そりゃ気付くわよ。しかもあんだけだだ漏れなんだし」
当たり前でしょ、と言いたげに言い切った理香に、佐久間は真っ赤に染まった顔をかくりと落とした。
「まぁ、質の悪いおっさんに目ぇつけられちゃって、佐久間くんも災難だとは思うけどさ」
もう一度、理香の手がぽんぽんと頭を撫でる。
「そんな人生も悪くないかもよ。おいでませ、陣内家へ」
理香の面白そうな声を聞きながら佐久間は深々と溜息を落とした。自分が蜘蛛の巣にかかった獲物と同じようなものだと、今更に気付いてしまったので。
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