鬼見る子供
「おかあさん。あそこにへんなのがいるよ。くろい、かげみたいなの」
部屋の隅を指差した我が子を見やって、女は思い切り眉を寄せた。無言を返せばことりと首を傾げて幼子がその小さな手を伸ばしてくる。それを振り払って女は吐き捨てるように言った。
「触らないで…!」
東京都心の一等地。ブランドショップや老舗の百貨店が立ち並び、スクランブル交差点を人が行き交っている。横断歩道の信号が赤に変わって、人の流れに乗って歩いていた健二は足を止めた。並んで立ち止まった幼なじみで親友の佐久間は駅前で配られていた団扇でぱたぱたとなけなしの風を送っている。
「んっとにあっちぃなぁ…」
親友の口から漏れた言葉に苦く笑いつつ、健二もポケットから取り出したハンカチで滲み出た汗を拭った。
今日は招待券が当たったという佐久間に付き合って、有楽町の映画館まで足を伸ばしていた。ついでに大型電気店をひやかして帰ろうという親友に「悪趣味」と悪態をつきつつ、JR線の駅へと向かって歩いているところだ。
「連続猛暑日更新だってさ」
携帯を操作しながら言えば、隣に立つ佐久間がげんなりと溜息をつく。
「げぇ…。マジかよぉ…」
言いながら団扇のスピードを上げた佐久間に一つ溜息をついて、健二は何気なく視線を佐久間とは逆側に向けた。そして、軽く目を見開く。
視線の先には一人の老女が立っていた。白っぽい着物を纏い、少しだけ灰掛かった色の日傘をさしている。すっかり白くなった髪を短くまとめて立つ姿はどこか涼しげだ。手首にかけた藤色の巾着と、その紐についた紅い飾り玉をつい凝視する。
と、その老女の向こうで悲鳴が上がった。
何事かと顔を向ければざわめきと共に人の波が開いて行く。その先に見えたものに健二の眉が寄った。
まばらになった人波の向こうに男が一人立っている。その男の手にはぎらりと光を弾くものが握られていた。そしてその足元には点々と紅が散っている。周囲に立っていた人たちが口々に「包丁を持っているぞ!」「女の人が切られた!」などと叫んでいるのが聞こえた。
しかし、健二に見えていたのはそれだけではなかった。包丁を手に立つ男の肩の辺りに、黒く蟠る影が見える。その影は、男の耳元に紅く裂けた口を寄せて何事かを呟いていた。こくりと、息を飲んだ健二の喉が鳴る。
「…健二?」
呆然と立ち尽くす健二の肩に手をかけた佐久間がぐいと容赦のない力で引いた。それに我に返った健二がはっとして顔を上げる。
「…居るのか?」
佐久間の低く抑えた小さな問いに健二はこくりと頷いた。
「…行くぞ、ここに居たら巻き添えくっちまう」
言いざま腕を引いた佐久間に続いて踵を返しかけた健二の目に、日傘を差した老女が振り返るのが見えた。一瞬絡まった視線。はっと目を見開いた老女の向こうで、黒い影が視線を向けたのが見えた。次いで、その目がかっと紅く燃える。男の耳元に影が何事かを呟いた次の瞬間、包丁を振り上げた男が雄叫びを上げて走り出したのが見えた。その目はしっかりと老女を捉えている。
「危ない…!」
思わず叫びかけた健二に、その老女はゆったりと笑みを浮かべた。そして、突進してくる男に向き直ると丁寧な所作で日傘を閉じる。包丁を振り下ろした男を軽くいなして、老女は畳んだ日傘で男の項をとんと打つ。とたんにかくりと膝を折って、男は歩道へと倒れ伏した。
呆然と立ち尽くしたまま、健二は倒れ付した男の肩から影が離れるのを見た。その影が老女を憎々しげに見やった後、ひょいと飛び退いて人ごみにまぎれたことも。
ほんの一瞬の出来事だった。思わずぽかんと口を開けて立ち尽くす健二の隣で、佐久間もまたぽかりと口を開ける。そして軽く息を飲んだ。
「ご当主…?」
「え?」
佐久間の口から漏れた言葉に、健二はきょとりと一つ瞬いて親友を振り返った。軽く見上げれば、珍しく自失した風にかぱりと口を開けている。
「お前さん」
呼びかけられて視線を戻した健二は、いつの間に歩み寄ったのか、目の前に立つあの老女にぎくりと肩を揺らした。
「おや、そっちは…」
「…どうも」
視線を向けてにこりと笑った老女に佐久間がぺこりと頭を下げる。
「え…」
言葉を交わす二人を見比べる健二に、老女は楽しげな笑みを浮かべた。その笑みのままに言われた言葉に、健二は思わずぎくりと肩を揺らす。
「お前さん、あれが見えてたね?」
「え…」
なんと答えたものか、隣に立つ親友に視線を向ければ、今度は強い声が耳を打った。
「見えていたのかと聞いてる」
びくりと肩を跳ね上げた健二に、佐久間は苦く笑って肩を竦めてみせた。それに、おずおずと視線を戻した健二は、顔を俯け少しだけくたびれたスニーカーの爪先を見つめた。少しの逡巡の後、小さく口を開く。
「…見え、ました。あの、足元に蟠ってた方も」
言えば老女は一つ息をついて満足げに笑う。
「やっぱり」
その声に嬉しげな色を聞き取って健二は思わず顔を上げた。見れば、その声のままに、満面の笑みを浮かべた老女がもう一度日傘をさしたところで。それにことりと首を傾げた健二に、老女はからりと笑った。
「ときに、お前さん。この後時間はあるかい?」
言われた言葉にきょとりと瞬いた健二に、老女はにこにこと笑いかけてくる。
「おばあちゃん!」
その時に、老女の背後から一人の少女が走り寄ってきた。明るく、聞き覚えのある声に、健二はもう一度目を見開いた。見れば、駆け寄ってくるのは高校の先輩で、佐久間と健二が所属する物理部とも交流のある夏希だった。
「夏希」
「夏希、先輩?」
「あ、夏希先輩」
三者三様に駆け寄ってきた人物を呼ぶ。夏希を呼んだ老女と、老女を「おばあちゃん」と呼んだ夏希と、驚いた風もなく夏希を見やった親友とを健二は交互に見やった。
「あれ? 健二くん? 佐久間くんも。どうしたの?」
駆け寄った夏希がきょとりと瞬いて言うのに、今度は老女が驚いたように目を見開いた。
「知り合いかい?」
「うん、高校の後輩なの」
夏希の簡潔な説明に、老女は「そうかい」と一つ頷いた。
「で、ちゃんと滅したかい?」
老女に言われて夏希は明るく笑う。
「うん、完璧!」
にこりと笑った夏希に老女もまた笑みを浮かべる。
「で、おばあちゃんこそ、なんで健二くん達と一緒にいるの?」
ことりと首を傾げていった夏希に老女はにこやかに笑う。
「ナンパ、っていうんだったかね。お茶に誘ったんだよ」
老女の言葉に、一同がかぱりと口を開けた。
健二の向いに座った老女がにこりと笑う。彼女は『陣内栄』と名乗った。夏希の曾祖母にあたるという。夏希の一族は『鬼』を滅することを生業とする『退魔師』の家系なのだと言った。
それを聞きながら、目の前に置かれたアイスコーヒーのグラスを健二はじっと見つめる。あの後、警官や駆けつけた救急車で騒然とする交差点を離れ、四人は近くの喫茶店に腰を落ち着けていた。
「…退魔、師?」
聞き慣れない言葉に健二の眉間に深い皺が寄る。隣でミルクと砂糖たっぷりのコーヒーを啜る親友を見やった。気付いた親友が一つ瞬くのをじっと見つめる。
そういえば、この春に親友が言っていた。祖父の跡を継ぐ事にした、と。どんな仕事かは聞いても教えてくれなかったが、特殊な仕事で修行が必要だから下宿を始めたとは聞いていた。
「もしかして、佐久間も…?」
聞けば、佐久間と夏希が揃って苦く笑う。
「あー、俺は違う違う」
「佐久間くんはちょっと違うんだなー」
小さく笑った栄が口を開いた。
「敬さんは札師だものねぇ」
ほがらかに笑う栄に健二は眉を寄せた。口の中で小さく「札師」と繰り返す。そんな健二に一つ息を吐いた栄が言った。
「…生まれながらに『鬼』を見ることのできる人を『見鬼』と言う。退魔の家系に生まれた者でも訓練しないと得られない、希有な能力だよ」
じっと見つめられて、健二は居心地悪く身じろいだ。
「お前さん、見鬼だね?」
言われて健二は肩を揺らした。隣に座る親友が気遣わしげに見つめてくるのにも無言を返す。
「退魔の仕事を、してみる気はないかい?」
重ねて言われた言葉に健二は顔を俯けた。
「まぁ、お前さんの場合は、退魔よりも巫女に向いてそうだけど」
楽しげに言う栄に、健二は一層顔を俯けて縮こまった。無言で顔を俯ける健二に栄は少しだけ眉を寄せる。カップを取り上げ一口飲んで口開いた。
「…人は自分の持ち得ない力を拒絶する。例え親子でもね」
言われた言葉に健二ははっとして顔を上げた。見上げた先、栄は穏やかな笑みを浮かべている。
「でも、その力があんたにあるということには、必ずなにがしかの意味がある。あたしはそう思うんだよ」
真っすぐな栄の言葉に、健二は何度か小さく口を開け閉めした。膝に置いた手をぎゅっと握って眉を寄せて、再び顔を俯けた。
「無理にとは言わないけどね。選択肢の一つに数えてくれると有難いと思ってるよ」
そう言って栄は夏希を伴って帰って行った。その後ろ姿を見送って健二は溜息をつく。しゃんと伸ばされた背は、何事にも揺るがない強さを滲ませていた。
これが健二と栄との出逢い。半年後、健二は栄の言葉に背中を押されて退魔の家の門を叩くことになる。
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