闇に棲むもの
「…あつー」
地図を片手に坂道を登る。汗と一緒に思わず声がもれた。
温い風が申し訳程度に吹いているが、歩くことで上昇した体温を下げてくれるわけではない。今日も連続熱帯夜記録を更新した東京の夜は、こんな時間にも関わらず蒸し風呂状態だ。
そう。ただいま午前2時25分、いわゆる草木も眠る丑三つ時。高台にある住宅街に人影はない。
「…ここ、かな?」
「ここだね。見るからに…」
二人はたどり着いた館を見上げてつぶやいた。
「だいぶ古いみたいだけど、一応結界ははってあるんだね」
「解くから。ちょっと下がっててもらっていい?」
「うん」
佳主馬の言葉に健二は数歩下がった。
「オン バザラド シャコク」
真言とともに靄が黒く染まり障気が流れ出る。強風にあおられるようにたたらを踏んだ健二を佳主馬の腕が支えた。
二人は靄が収まるのを待って館を見上げる。結界が消えた建物は、だいぶその姿を変えた。少なくとも二人には、こんな住宅街にたたずむには似つかわしくない様相に見えている。
「地鎮でいいんだよね」
振り返って言う佳主馬に健二はこくりと頷いた。
「うん。迷い込んだ子供がなんか見たって騒いだらしいから」
ポケットから取り出したメモを見ながら言う健二に佳主馬は軽く肩を竦めて溜息をついた。
「こんな建物、放置しとく方が悪いんじゃないの?」
「同感」
メモから顔を上げて建物を見上げた健二がげんなりと眉を寄せる。
「あんまり長居はしたくないかも…」
かくりと肩を落として言う健二に小さく笑って、佳主馬はポケットから取り出した鍵で玄関ドアをあけると躊躇なく闇の中へと踏み込んだ。
傷んでぎしぎしと悲鳴をあげる廊下を歩く。堆積した埃にこの家が放置されてから長い時間が経過していることが伺えた。
「えーと…」
健二は一気に下がった体感温度にふるりと肩を揺らした。
「お約束的には丑寅だけど」
何か居そう? という佳主馬に健二は軽く腕をさすりながらあたりを見回す。
「特に何も感じないんだけど…」
健二は軽く目を閉じて気配をたどる。
「あ、上、かな?」
「二階?」
「うん」
廊下の突き当たり、元はリビングだったのだろう部屋の横にある階段から二階へ上がった。階段の上がり端に一部屋、突き当たりに二部屋。突き当たり、気配の濃い向かって右の部屋のドアを開ける。
「うん、やっぱりここだ」
「鬼門の丑寅」
「しかもここ、二階っていうよりは屋根裏部屋だよね」
「気配は…」
佳主馬の呟きに、健二は柏手を一つ打ち魔祓いの祝詞を唱えた。
「天切る、土切る、八方切る、天に八違い、地に十の文字、秘音、一も十々、二も十々、三も十々、四も十々、五も十々、六も十々、ふっ切って放つ、さんぴらり!!」
健二の声にあぶり出される気配を探りながら、ポケットから数珠を出した佳主馬が室内に足を踏み入れた。
その瞬間。
「佳主馬くん! 右!」
人の気配に反応したらしい『それ』の気配がふくれあがる。闇から鎌首のようにのびた影が、意思を持って佳主馬を襲いかかった。
健二の声に咄嗟に左に避けた佳主馬は部屋の右隅の闇に目をこらす。
部屋には小さいとはいえ窓がある。その窓から入る光の向こうの深い闇。そこに、明らかに人ではない、しかし強い意志をもった存在が感じ取れた。
攻撃の予備動作を感じ取った佳主馬は、数珠を左手に巻き付けると短く息を吐く。
「健二さん。祓えを」
「うん」
佳主馬の言葉に部屋の入り口にいた健二も部屋に足を踏み入れる。
「掛けまくも畏き伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に…」
祓詞を唱える健二に、佳主馬を狙っていたはずの影が一瞬動きを止めた。ひゅ…と風をきるような音がして、影が健二に向かう。
「健二さん!」
「うわ!」
伸びた影が健二に届く一瞬前、健二の体は佳主馬の腕にさらわれた。二人は部屋の右側へと倒れ込む。健二をかばうように影に背を向けた佳主馬の脇腹を、伸ばした鎌首をしならせた影が左に払った。影にはじかれた佳主馬が向かいの壁に打ち付けられる。
「佳主馬くん!」
健二は闇が動く気配に、はっとして顔をあげた。
埃の舞い上がる部屋の中。窓からの光が届く位置に、はっきりと影を引いた異形の姿が浮かび上がった。
「…う、そ。鬼?」
呆然と呟く健二の前で、その異形の影は伸ばした鎌首をずるりと引いた。
「…実態化してるなんて、聞いてないよ」
がらがらと、倒れたときに巻き込んだがらくたを押しのけながら佳主馬が立ち上がった。したたかに打ち付けた背中が痛いが、今はそんなことにかまっていられない。
佳主馬にダメージを与えたと思ったのか、影が再び鎌首をのばした。影の動きに健二はとっさに真言を唱える。
「ナウボ マケイジンバラヤ オンキマボウシキャヤ ソワカ!」
しかし、影は怯んだ様子もなくずるりとさらに一歩を踏み出した。
「うそ?! 効かない?!」
いくら巫女とはいえ、この程度の咒ならば使えるはずだ。しかし、影の足は止まらない。
驚く健二をよそに佳主馬は九字を切り剣印を払った。影の切っ先がわずかにそれる。その隙に窓側に飛び退って体制を整えた。
「健二さん、無駄」
「え、なんで?!」
「禁欲もしてないのに技芸天の修法が使えるわけないでしょ」
「あ、そっか。…って、それ佳主馬くんのせいじゃない!」
呆れたような佳主馬の言葉にうっかり納得しかけて、健二は慌てて頭を振った。
「…誘ったの健二さんだし」
「なっ…! 誘ってません!!」
ぼそりと呟かれた佳主馬の声に健二が顔を赤く染めて反論する。その間にも、影はじりじりと佳主馬までの間合いを詰めていた。
「そんなことどうでもいいから、祓えをよろしく」
「〜〜〜っ! もう!」
柏手を打った健二が怒りのままに祝詞を一気に唱える。
「掛けまくも畏き伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等 諸諸の禍事 罪穢有らむをば 祓へ給ひ 清め給へと白す事を聞こし食せと 恐み恐みも白す」
健二が祝詞を唱え終わると同時に、佳主馬が数珠をかざして結界を張る。
「オン キリキリ バザラ バジリ ホラ マンダ マンダ ウンハッタ」
タタタタン…と続けざまに打ち立てられる柱。最後の一本がタン!と降りた瞬間、佳主馬が印を結ぶ。
「ナウマク サラバタタギャーテイビヤク サラバボッケイビヤク サラバタタラタ センダマカロ シャダ ケン ギャキ ギャキ サラバビギナン ウン タラタ カン マン!」
佳主馬の火界咒は結界の内側を焼き尽くした。
影が『鬼』に実態化していたのは、あの部屋に打ち捨てられた小さな鏡を媒介にしたためだったようだ。とりあえずの処置として、鏡を咒で清めて封じてきたが、明日、専門の人間に改めて封じを頼んだ方がいいだろう。
「あー、もう。えらい目見ちゃったよ」
「ホント」
服についた埃を払いながら、二人は玄関を出る。
「それにしても佳主馬くん」
じろりと睨み上げてくる健二に佳主馬はことりと首を傾げた。
「ん?」
「木造建築なのに火界咒って。火事にでもなったらどうするつもりだったわけ?」
半眼で言う健二に佳主馬は薄く笑う。
「そしたら健二さん、龍神呼んで」
あっけなく言い放たれて健二は絶句した。何事もなかったかのようにさっさと門扉をくぐる佳主馬の背を見つめて、思わず深く頭を落とす。
「お疲れー」
のんびりと間延びした声に、健二は驚いて視線を向けた。向かいの歩道に立ち片手を上げて笑みを浮かべる人物に慌てて歩み寄る。
「佐久間!」
「ちょっと、佐久間さん。実態化してるなんて聞いてないよ」
健二に続いて道路を横切りながら、佳主馬はすっと目を細めて声の主を睨みつけた。
今回の依頼は地鎮だったため、『鬼』を祓うような準備はしていなかった。影が『もの』を媒介に実態化していたからあの程度で済んだものの、『生き物』を媒介にしていたら命があったかどうかも怪しい。
「…ガチで?」
「ガチで」
あちゃー、と額を押さえつつ、それでも佐久間はへらりと言った。
「そんなこと言われてもなぁ。俺等だって結界の中が覗けるわけじゃないんだし」
「だったら旦那に言ってよ。上に掛け合えって。年に一度の御修法だけじゃ埒があかない」
「なんだよ、旦那って」
眉を寄せて佐久間が言うのに、佳主馬は少し離れた場所に停められた車へと視線を向けた。運転席のドアに凭れるようにして立つ長身をねめつける。その視線を追って佐久間はあからさまに眉を寄せた。佳主馬を睨み上げる顔が少々赤く染まっているのは気のせいではないだろう。
「旦那でしょ?」
佳主馬の揶揄するような台詞に、佐久間は大袈裟に肩を竦めてため息をついた。
「…あー。分かった分かった。後で言っとく」
ぼりぼりと頭をかきながら投げやりに言う佐久間に、佳主馬もまた軽く肩を竦めて溜息をついた。
「…これからも増えるんだろうね」
あきれ顔で二人のやり取りを聞いていた健二がぽつりとつぶやく。それに、佳主馬と佐久間もむっすりと黙り込んだ。
生温く淀んだ夏の空気。これを熱帯夜のせいだけだと思っていられる人間がうらやましい。このまとわりつくような空気に臭いがないのが不思議なくらいだ。
「まぁなぁ。ヤツらを栄養たっぷりの培養液で育ててるようなもんだもんなぁ」
佐久間の言葉に健二と佳主馬も寄せて眉間の皺を深くする。
三人が見下ろす先は不夜城・東京。この街の灯は住人の欲望のままに消えることがない。
「…いっそ、東京に結界張って火界咒かましてみようかな」
「や、佳主馬くんがそれ言うとシャレになんないから」
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