『後瀬』
「敬ー。敬や」
のんびりとした老齢の女の声がする。井戸端で米を磨いでいた少女は屈めていた腰を伸ばすと、声のした方へと目を向き直った。
「はーい」
一声返してから、よいしょと声を掛けて釜を抱く。そのまま勝手口から屋内へ入り竃へ釜を置くと、被っていた手ぬぐいを外しそれで手を拭った後、はたはたと足元を叩きながら板の間へ足を乗せた。
「はいはい。奥様、なんすか?」
そう長くはない廊下を歩いて、目当ての部屋の前で膝をつく。少しだけ開いた障子の間から中を覗けば、白いものの目立つ髪をゆったりと結い上げた老婆が一人、座布団へちょこんと腰を降ろしていた。
「すまないけど、奥にお茶を二つ、お願いできるかしら?」
言われて少女はきょとりと一つ瞬いた。そういえば、少しだけ日の陰った室内に老婆の連れ合いの老爺の姿がない。
「ご隠居さまですか?」
「そうそう。今日はほら、ちっとも上手くならない囲碁のね…」
「あぁ…」
そういえば、昼餉の席で客が来ると言っていたか。
「私が行ければいいのだけど、足がねぇ…」
少しだけ崩した足をさすりながら言うのに少女は小さく笑って頷いた。
老爺は元々老舗の油問屋の主だった。老婆は長年連れ添った妻だ。老爺の還暦を機に身代を息子に譲り、連れ合い共々この小さな庵に隠居してきた。身の回りの世話はこの少女一人が一手に引き受けている。とは言っても、使用人と奉公人というよりは、老夫婦と孫と言った方が余程にしっくりくる。
「離れにお茶二つっすね」
分かりました、と言いざま少女は立ち上がるとぱたぱたと元来た廊下を戻っていった。
少女の名は敬という。佐久間敬、それが少女の名だ。武蔵野の端っこで生を受け、十の年にこの老夫婦が営んでいた油問屋に奉公に出された。老夫婦が隠居する際に身の回りの世話をせよと言いつかり今に至る。
尤も、老爺の言いつけに吃驚したのは後を継いだ息子の方だった。読み書きはもとより算盤にも明るい敬には、いずれ店の手伝いもさせようと思っていたらしい。
「他にも人はいるだろう」
「いや、敬がいい」
親子の押し問答は親の方に軍配が上がった。老婆の「敬の部屋はもう誂えたから」の一言で息子も渋々と折れたのだ。
そういった遣り取りがあったことをこの庵に来てから知ったが、敬はふぅんと胸の内で呟いただけだった。正直なところ、三食まともに食べられて雨風の凌げる寝床があり、それに給金もそれなりに貰えるとなれば、どこで働こうが瑣末なことだ。ましてや、主が言ったような『商売で身を立てたい』などという野心は佐久間にはない。ただ過不足無く日々を生きることが出来れば御の字なのだ。
敬は台所に取って返すと囲炉裏に掛かっていた薬缶を手にとった。来客用の湯のみを二つ用意し湯を注ぐ。急須に茶筒から茶葉を入れると湯のみから湯を注ぎ入れた。待つ事しばし、急須を軽く揺すりながら湯のみに茶を煎れる。それを盆に乗せ、少し考えて茶箪笥から買い置きの菓子を出して小皿に盛った。
ご隠居は甘党だから、日持ちのする干菓子はそれなりに買い置きがある。うんと一つ頷いて、敬は盆を手に渡り廊下で繋がった離れへと向かった。
「ご隠居さま、お茶を…」
部屋の前で廊下に膝をつき、中へと声をかける。
「あぁ、そこに置いておいておくれ」
「はい」
どうやら勝負は主にとってのみ佳境に入っているようだ。敬は小さくくつりと笑うと盆をその場に置いて踵を返した。奥へと足を向け目当ての部屋の前で廊下に膝をつく。
「奥様、お茶お出ししました、けど、夕餉はどうしましょ?」
まだ時間かかりますよね? と首を傾げれば、老婆はころころと笑った。
「さすがにもうそろそろお帰りでしょ。あちらさんも、隠居の爺に長々と付き合う程お暇な方ではないからねぇ」
「そうっすか…?」
ことりと首を傾げれば老婆は小さく肩を震わせて笑う。
「えぇ、構いませんよ」
「はい…」
とりあえず確認はした、と一つ頷いて、敬は自分の縄張りとも言える台所へと足を向けた。
遠くでかなかなとひぐらしが鳴いている。その声を聞くともなしに台所へ戻った佐久間は夕餉の支度に取りかかる。最近出回るようになったおくらと秋茄子を炊き合わせるか、冬瓜を炊いて茄子を焼くか…。敬は少し悩んで冬瓜を手にとった。冬瓜は馴染みの八百屋が「今年の初物だ」と勧めたものだ。少し小振りだがずしりと重い。敬はにんまりと笑みを浮かべると冬瓜に包丁を入れた。ぱくりと割れた実は水分を含んで重くも瑞々しい。
敬は鼻歌を歌いながら冬瓜の実を小さく切っていく。それを昆布と鰹でとった出汁に放り込み蓋を落とした。次いで茄子を炭を起こした七輪の網に乗せる。包丁で薄く入れた切れ目から小さくぷつぷつとこぼれる泡に敬は目を細めた。冬瓜は老婆の好物で焼き茄子は老爺の好物だ。夕餉の席で目を細める二人を思い浮かべて敬は小さく笑った。
「あとは…」
陽も暮れかけ、大分弱くなった日差しに敬は一つ息を吐いた。勝手口から出た庭の片隅に三つ葉が少しばかり植えてある。こうしておけば、料理にちょっと添えるにも便利だと言った敬に、老夫婦は目を細めて笑ったものだ。その三つ葉の前にしゃがみ幾つかを手折る。これで吸い物でも作れば十分だろう。
と、玄関先が何やら騒がしくなった。どうやら老爺のところに来ていた客人が帰るようだ。少しだけ首を伸ばして玄関を見やれば、随分と仕立ての良い着物を纏った男が立っている。年の頃は三十半ばといったところだろうか。老爺が小柄なだけにその長身が際立っている。
敬の視線に気付いたのか、いかにも商人といった服装のその男が振り返った。削げた鋭利な頬と切れ長の目元は、商人というよりもむしろ士族のようだと敬は思う。敬と視線を絡めた男は少しだけ驚いたように目を見開いた後、小さく口角を持ち上げて目元を緩ませた。それだけで随分と印象が変わる。
「今日は長々とお付き合いいただいて…」
老爺の声にすっと視線を逸らした男に、敬はほっと一つ息を吐いた。
「いえ、こちらこそ。すっかり長居をして」
「これに懲りずに暇な老爺の相手をしていただけると有難いですがな」
老爺の笑い声を聞きながら、佐久間は積んだ三つ葉を手に立ち上がる。老爺に軽く会釈をして門へと向かう長身の背を目で追った。ふと、振り返った男が目を細めて会釈をするのに慌ててそれに倣う。楽しげに口角を緩めた男の姿が見えなくなるまで、敬はその場に立ち尽くしていた。
それから、月に一度か二度、その男は老爺を訪ねて来ては碁を打って行くようになった。敬が茶を出せば軽く笑んで会釈を返す。それがどうにも珍しいと敬は思った。
主夫婦に聞いたところ、どうやら日本橋でも有名な大店、上田屋の主らしい。
「先代は早くに亡くなったはずだけれども、なかなかどうして。才覚のある男だよ」
老爺が「あの半分でもうちの倅に商才があれば」と続けた時には老婆共々苦く笑った。敬も知るこの老夫婦の息子は致命的な程にお人好しだ。使用人達にはそこをこそ慕われているが、商売人としては些か問題だろう。
「ただ、跡取りには恵まれておらんらしいな」
「そういえば、上田屋さんの奥方は病弱だとか…」
世の中上手くいかんもんだねぇと、頷き合う主夫婦に、敬はそんなものかとみそ汁を啜った。
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