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『龍鱗の紅に』

 名を呼ばれたような気がして理一は書面に落としていた視線を上げた。周囲を見回してみたが、この書庫を兼ねた小部屋に居るのは、目の前で書類整理に勤しむ姉だけだ。
「呼んだ?」
 違うだろうと思いつつそう問えば訝しげに首を傾げられた。眉を寄せ書類から顔を上げた姉が一つ息を吐く。
「何も言ってないわよ」
「だよね…」
「幻聴じゃないの?」
 切り捨てるように言って作業に戻ってしまった姉に、理一は苦く笑って肩を竦めた。一つ息を吐いて筆を持ち直すと再び書面に視線を落とす。と、また、耳元で小さく声がする。細いその声がまとわりついてくるようで、理一はきつく眉根を寄せるとぐるりと周囲を見回した。
 厳しい表情を浮かべたまま天井の梁にまで視線を向けた理一に、理香は書類から顔を上げると呆れたように一つ息を吐いた。肘をついた手の甲に顎を乗せ口を開く。
「今日は満月だし、呼ばれてるんじゃないの?」
 姉に言われて理一はすとんと得心した。
 確かに、言われてみれば今日は満月だ。中天に向かう見事に丸い蒼い月が、御簾をたくし上げた窓枠に引っかかるように見えている。
 そうかと一つ頷いて理一は手に持っていた愛用の筆を硯に置いた。書面に栞をしてついと立ち上がる。
「ちょっと流してくる」
 言えば姉は仕方が無いと言いたげに肩を竦めて、書面に乗せていた手をぷらぷらと振った。
「はいはい、いってらっしゃい」
 うん、と一つ頷いて理一は一歩を踏み出す。開け放たれた露台にすたすたと歩み寄った理一に、理香はばっと顔を上げると眦を吊り上げた。
「ちょっと! 行くならちゃんと門から行きな! 露台は出入り口じゃないっていつも母さんから言われてんでしょうが!」
 背に突き刺さる姉の声にいっそ爽やかな程の笑みを返して、理一はそのままひらりと露台から身を踊らせた。

 いかな不思議でか、龍は満月の夜には「呼ばれる」ことがあるという。従兄にあたる頼彦も満月の夜に「呼ばれた」と言ってふらりと出かけ、嫁を拾って帰って来た。
「あんたの番いは海が用意してくれたんだよ」
 照れたように笑う孫に祖母が目を細めてそう言っていたのを思い出す。
 紅の鱗を揺らし、龍の姿で水を滑りながら理一は思う。今更に嫁が欲しいとは思わない。親族は山ほど居るし、次代を期待されているわけでもない。実際、従妹が産んだ次代はすくすくと順調に成長している。祖母が太鼓判を押す程の逸材だと評判だ。南の宮は安泰だと、髪結いの儀式を盛大に執り行ったことも記憶に新しい。
 では、何故呼ばれるままに海に出たのか。自問して理一は小さく笑う。ただ声の主を見てみたかっただけだ。好奇心を満たすことに目的を見い出せないほど、枯れてはいないと自負している。
 四海にある王は四人。そしてその宮もまた四つ存在する。南の竜宮は別名を朱雀宮。紅い甍が波打つ様が炎を司る鳥の羽に似るが故にそう呼ばれている。
 竜宮は領海の中央にある高峰をぐるりと巻き込むように建てられている。浮き島には東屋が配され浮き橋が回廊とを繋ぐ。山の中腹から麓にかけては黒々とした奇岩が絡み合う枯れ枝のような姿をさらし、微かに見える幾つかの筋が麓から山頂付近にある大門へと続いていた。その筋は、この宮を訪ね来る海の者の歩く道だ。
 理一は眼下に視線を流した。黒々とした奇岩の合間に染め抜いたような紅い珊瑚が揺れている。岩肌に群生する紅珊瑚は月の蒼い光の中で炎のように揺らめいて見えた。
 奇岩が途切れると白い砂地が広がる。ところどころに水草の茂る草地があり、草地から続く森がある。黒々と影を落とすその闇の縁に沿って、ぽつりぽつりと小さく灯りが見えた。あの灯りは集落だろうと思いながら理一はさらに水を掻く。
 流れる景色の中、黒々と聳える奇岩と紅い珊瑚は、白い砂地の色彩との差異もあって際立って鮮やかだ。その上を自分の落とす黒い影がうねるように流れて行く。不規則に揺れる水紋を浴びながら理一は水を掻いた。
 頭上の水面に明るく真円が揺れる。月の門だ。海の者は皆、『外』に出る時にはこの門を通らなければならない。それは太古から続く世界の掟だ。陸と海は月の門を交点に表裏に存在する。
 小さく細い声はその門の向こうから聞こえてくる。理一はぐいと勢いよく水を掻くと月の門をくぐり抜けた。
 ざばりと音を立てて水面に躍り出て理一は変化を解いた。風が細波を刻む水表に立ち辺りを見回す。強い潮の香りと髪を乱す水気を含んだ風。それに混じって聞こえてくる声の出所を理一は目を閉じて探る。声は波に合わせるように強弱をつけて聞こえてくる。ぐるりと頭を巡らせて、声が一際大きく聞こえる方向に向き直ると目を開けた。北天の方向、大きく光る星の方から声は聞こえてくる。
 満月に明るく照らされた水面に目を凝らしていた理一は、ふと眉を寄せて一歩を踏み出した。微かに揺れる水面に何かが動いたように見えたのだ。しかし、視線の先、波頭が光を弾く水面に変化はない。気のせいかと思いながら数歩を歩く。と、黒いばかりだった水面に違った色が見えた。理一は軽く目を見開くと歩調を速めて歩き出した。
 潮騒を聞きながら足早に歩み寄れば、果たして、波間に淡い色の髪を水に濡らして浮かぶ者がある。理一は眉間の皺を深くしながら片膝をついて検分する。年の頃は十と少しといったところだろうか。粗末な着物を纏った少年だった。肩より下を水に浸し、力なく伸ばした細く白い腕が辛うじて木っ端に掛かったような状態で浮かんでいる。
 ふと、また耳元で声が聞こえた。その声に促されるまま、理一は白い血の気の失せた頬に手を沿わせてみる。触れた指の先にとくりと小さく鼓動が伝わった。どうやらまだ命はあるようだ。
 ほっと一つ息を吐いたところで、ひくりと白い瞼が動いた。ゆっくりと瞼が上がり、少年が薄らと目を開ける。鳶色の瞳が力なく辺りを彷徨った。声もなく見つめるままの理一と視線が交わって、生気のなかった眼に光が灯る。少年の目が数度、ゆっくりと瞬きをするのを認めて理一は口角を引き上げて小さく笑った。
「一緒に来るかい?」
 何気なく口から零れ出た言葉に、理一は自分で驚く。連れ帰ったところで命が保つかどうかの保証はない。実際、助からずに泡となって消えた陸の人間を何人も見てきたというのに。何故こんな言葉が出たのかと自問が脳裏を駆け巡る。
 半ば自失して某然と見つめる理一の視線の先で、少年はこくりと一つ頷いた。





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