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8月21日

8月21日 08:22
おはようございます


 佐久間は瞼の上で揺れる光に引かれるように意識を浮上させた。うっすらと目を開けて、滲む視界の中に視線を彷徨わせる。かろうじて読み取れた枕元のデジタル表示は休日の起床時間にはやや早い時刻を告げていた。
 一秒ごとに形を変える表示をぼんやりと見ていた佐久間は、布団からはみ出た肩をふるりと震わせた。空調の効いた室内は少し肌寒い程で、背中を覆う熱と肌に馴染んだ布団の温かさはとても魅力的だ。枕代わりにしている逞しい腕に額をすりつけて体勢を整えると佐久間はゆっくりと目を閉じる。再び訪れた睡魔に意識を明け渡そうとしたその時、ぞろりと背中を這った自分のものではない肌の感触にぎょっとして目を開けた。
「…理一さん?」
 背中から脇腹をなで上げる手と項に触れる少しだけ濡れた感触に、佐久間は己を背後から抱き込んでいる犯人を睨み上げた。くつりと笑う気配がして、脇腹をなで上げた手が胸元に這い上がってくる。いたずらな手を慌てて押し留めて佐久間はその甲をつねった。
「痛いよ、佐久間くん」
「痛くしてるんです」
 笑い含みに抗議されて佐久間は深々と溜息をついた。
「ったく、朝っぱらから何してんですか、あんた」
 呆れを多分に含んだ声で言えば枕にしていた理一の腕が頭に巻き付いてくる。引き寄せられて、後頭部をその無駄に広い肩に押し付けられた。寄せられた唇が耳朶に触れる距離で囁く。
「おはようの挨拶」
「…っ!」
 言いながら耳朶を食んだ理一の手がするりと下肢へ伸びる。その感触に息を飲んで佐久間は目を見開いた。
「どこにっ、挨拶する気、ですか!」
 言いながら、佐久間はなんとか理一の手を払いのけて、勢いのままに立ち上がった。飛び降りる勢いでベッドを降りて、微妙に開いた襟元と少々ずり落ちたパジャマのズボンのウエスト部分を握りしめる。そんな思い切り乱れた格好で肩で息をしながら振り返れば、布団の中で理一がにやにやと笑っていた。
「残念。逃げられちゃった」
 枕に肘をつき上体を起こして悪びれた風も無く言う男を、佐久間は顔を赤く染めたまま睨みつけた。
「逃げるわ! 朝っぱらから何考えてんですか!」
 吠える佐久間に理一は軽く肩を竦めると、両手を広げた。それに眉を寄せた佐久間に苦く笑って理一は口を開く。
「佐久間くんのことだよ」
 穏やかに言われて思わず佐久間は言葉を詰まらせた。じっと睨む先で、理一は変わらず穏やかな笑みを浮かべている。
「…おいで」
 枕についた肘で上体を支えながら言う理一に佐久間は小さく息を飲んだ。少しだけベッドに歩み寄って、上目使いに睨み上げる。
「…へ、へんなこと、しない?」
 言えば、きょとりと一つ瞬いた後、理一はちいさく噴き出した。何を思ってか苦く笑ってもう一度両手を広げる。
「しないから、おいで」
 おずおずと歩み寄ってベッドに片膝を乗せたところで、佐久間の腕を理一の大きな掌が掴んだ。引き寄せられるまま、まだ熱の残る布団に肩を落とせば理一の掌が背中を包む。そのまま腕の中に抱き込まれて、佐久間は理一の肩に額をつけて小さく息を吐いた。
「…せっかく二度寝しようと思ってたのに」
 額を肩にぐりぐりと押し付けて、恨みがましい声で言えば苦く笑う気配がする。
「ごめんごめん」
 謝罪の言葉を呟きながら髪に口づけを落とす理一に、佐久間はちらりと視線を上げた。気付いた理一がにこやかに笑う。
「佐久間くんが可愛いからつい…」
 ついってなんだよ、と思いつつ、佐久間はすっかり赤く染まっているであろう顔を俯けた。

 背に添わせた手で再び肩から首筋をなぞり始めた理一を「ふざけんな!」と叫んだ佐久間が枕で殴りつけるのはある意味お約束。





8月21日 11:24
ブランチ


「佐久間くん。佐久間くん?」
 肩を揺さぶられて佐久間はうっすらと目を開けた。眉を寄せて見上げれば苦い笑みを浮かべた理一が顔を覗き込んでくる。
「…なんすか?」
「えーと…ご飯、できた、よ?」
 低く呟けば理一はぽりぽりとバツ悪げに頬を掻いた。
──知ってますよ。
 胸の内で溜息と一緒に呟いて。佐久間はすりと額を枕に擦り付けた。
 夢現を漂いながら、意識の片隅で理一が立てる物音を聞いていた。ぱたぱたと無駄に収納を開け閉めする音に、フライパンはレンジの下だっつの、と呟いたりもした。
 人の立てる物音はどこか優しいと佐久間は思う。
 幼い頃から、母や姉が働きに出た家の中、佐久間は一人で居る事が多かった。物音といえば自分の立てるものだけで、しんと静かな室内に早く夜になれと祈ったものだった。長じるに従って時間のつぶし方を覚えて、待つことは苦ではなくなった。そしてプログラムやOZのバイトにのめり込むようになってからは、時間の少なさを嘆くようにもなった。
 それでも、やはり人の立てる物音というものを意識の片隅で追う癖は抜けない。
 そんな事を考えながら、佐久間は一つ小さく息を吐いた。眉間に深く皺を刻む。
 今朝の理一は随分と執拗だった。いつもならば、佐久間が嫌だと言えばあっさり手を離して、仕方が無いと言いたげに肩を竦めて終わりになるのに。
 結局、引き込まれたベッドの中で、体格差にものを言わせた理一にいいように翻弄されて。佐久間はなけなしの体力を使い果たしていた。優雅に二度目を堪能するつもりだったのに、気付けば起き上がることもできないまま午前中を終えていた。
 理一の久々の休日。買い物に出かけたり食事に出かけたりと、出来ればしてみたいと思い描いていた予定が全てパァだ。
──それもこれも全部、このおっさんのせいだ…!
 未だベッドに沈み込んだまま、佐久間は枕元に腰を降ろして心配げに覗き込んでくる理一を睨み上げる。
 理一が朝っぱらから盛ったりしなければ、未だ布団と愛し合うような目にはあっていなかったはずだ。せっかくの晴天に、シーツを洗って干すことも、布団を干すこともできないのだから、八つ当たりの一つもしたくなろうというものだ。
「…起き上がれません。腰痛くて」
「……うん」
 ぼそりと呟けば理一が視線をそらして一つ頷く。
「喉も痛いです」
「…うん」
「足に力入んないし…」
 きろりと睨めば理一はへにょりと眉を下げた。
「…ごめん」
 俯いたまま言うのに、佐久間は一つ溜息をついた。もそりと身じろいで両の腕を伸ばす。
「…佐久間くん?」
 差し出された手にきょとりと一つ瞬く理一に、ずいと掌を差し出す。
「起きらんないって、言いましたよね?」
 言われて思い当たったらしい理一が小さく口角を引き上げて苦く笑う。佐久間の手をとり、その膝裏にもう一方の手を差し入れると横抱きに抱き上げた。
「ちょ…?! 起こして、肩貸してくれるだけでいいんですってば!」
 急に上がった視線に驚いて思わず理一の太い首に抱きつけば、嬉しげに目を細めた理一が至近距離で見つめてくる。
「ちゃんと責任とるよ。リビングまで連れてくから」
 頬に軽いリップ音を立てて口付けられて、佐久間は顔を一気に染め上げた。低く唸って、にこにこと笑みを浮かべ続ける理一を一瞥する。首に回した腕に力を込めて、その秀でた額に頭突きをかました。
「…痛いよ、佐久間くん」
「だから、痛くしたんですってば」

 ダイニングチェアでは腰がつらいだろうからとリビングのソファに降ろされて、子供か! と言う程に世話を焼かれたブランチを終えた。いそいそと食器をキッチンに運ぶ理一の背を見送って、佐久間は深い深い溜め息をついた。





8月21日 15:43
おやつと昼寝


 理一は一つ息をついて己の膝を枕に眠る子供の寝顔を見下ろした。
 少しだけ高めに設定された室内の空気を扇風機が緩くかきまぜていく。その風が時折佐久間の淡い色の髪を散らした。その乱れた髪を指先で整えながら、理一は小さく笑みを浮かべる。
 昨日佐久間自身が持参した焼き菓子のおやつを平らげて、理一の煎れたコーヒーを堪能して。理一の肩に凭れ掛かって船を漕ぎ始めた佐久間に、理一は膝へとその頭を押し付けた。最初のうちこそ嫌がる素振りを見せたが、人肌のぬくもりに負けたのだろう。暫くすると小さく寝息が聞こえ始めた。
──ちょっと無理させちゃったかな。
 久しぶりの休日だった。だからというわけではあるのだが、佐久間の体温を傍近くに感じたら我慢がきかなかった。
 せっかくの休日なのだからと拒む手を押さえつけて、若さ故に即座に反応を返す身体に揶揄するような言葉を囁いて。陥落した佐久間を思う存分堪能した。
「理一さんのせいだ」
 動けないとむくれる佐久間の恨みがましい言葉にも頷くより他になかった。
 膝を枕に眠る佐久間の顔を覗き込む。その寝顔には薄く疲労の色が残っていた。ゆっくりと髪を梳きながら理一は苦い笑みを浮かる。
 親子程も年の違う子供に入れあげている。その自覚はある。未熟な子供に欲を教え込んで、逃げないのをいいことに、こうして手の内に囲って。
「…これを言うと君は凄く怒るけどね」
 理一は佐久間の髪をなぞりながら小さく呟いた。
 いずれ、佐久間は自分の元から去って行くと理一は思っている。今はまだ佐久間は狭い世界に生きている。本人はOZを窓口に広い世界に触れていると思っているかもしれないが、だが、所詮は子供の触れられる範囲の世界でしかない。大人になればOZの仮想空間がけして現実の広大な世界の縮図ではない事を知るだろう。そして、現実の世界がいかに広いかも。
 佐久間は知的好奇心が旺盛だ。そして、その知識を吸収し己の糧にしていけるだけの能力も持っている。そんな佐久間が新しい世界を求めるのは火を見るよりも明らかだ。
 その時には、飛び立つ佐久間の手を離してやらなければならないと理一は思っていた。決してその羽根の動きを妨げることなく、自由に羽ばたかせてやらなければならないと。
 そう思っていたのに。
 こうしてその熱に触れてしまえば、そんな決意など守れそうもないと思えてしまうのだ。外の世界など見せずに、ずっと、この狭い鳥かごの中に閉じ込めたままにしてしまいたい、と。
「淡白な方だと思ってたんだけどなぁ…」
 理一は自嘲を滲ませた笑みを浮かべて、穏やかに眠る佐久間の前髪を弾く。ゆっくりと上体を傾けると、現れたまろい額にそっと口付けた。





8月21日 19:52
夕食をいただきましょう


 佐久間はほこりと湯気を上げる鍋を満足げに見やった。昨日、理一が食べたいと言ったカジキマグロの煮付けはよく炊けている。キュウリの浅漬けとイカの酢みそ和え、インゲンのごま和えをそれぞれ小鉢に盛りつけて、佐久間は茄子のみそ汁を椀によそった。原材料はもちろん陣内産だ。
「身体は? 大丈夫なの?」
「大丈夫ですって」
 心配げに眉を寄せる理一に佐久間は苦く笑った。そんなに心配するなら最初から自重してくれればいいものを、と喉元まででかかった言葉を飲み込む。
 使い慣れたエプロンを身につけてキッチンに立った佐久間は、深い溜め息を落とした。背後に立つ理一をじとりと睨み上げる。
「…大丈夫ですから。テレビでも見ててください」
「手伝うよ」
 即座に返された返事に佐久間はげんなりと溜息をつく。
 いくらファミリータイプのキッチンといはいえ、標準よりも大分大きな理一が居ると、正直邪魔なのだ。足りない食材をとろうと冷蔵庫を開けるにも一々どいてもらわなければならない。はっきり言って面倒くさい。
「いいですから!」
 一文字一文字を区切るように言えば、理一は困ったように眉を寄せた。それに、へにゃりと眉を寄せて佐久間は苦く笑う。
「大丈夫ですから、ね?」
 ことりと首を傾げれば、理一はしぶしぶとキッチンを出て行った。その背を見送って、佐久間はもう一度深々と溜息をつく。
「何かあったら遠慮なく呼んでね」
 理一の言い様に頷きはしたが、佐久間は胸の内を過った思考に視線を彷徨わせた。レンジの前に移動して鍋を取り出しながら、理一に聞こえない程の小さな声で呟く。
「定年退職した夫を鬱陶しいと思う奥さんの心境ってこんなかも…」
 料理の合間にもちらちらと理一の視線が流れて来たのには気付いていたが、佐久間はスルーを決め込んだ。そうして出来上がった料理をカウンターに並べれば、解禁とばかりに理一が歩み寄ってくる。皿や椀を持ってダイニングテーブルに夕餉をセッティングしていく理一に佐久間は小さく笑った。
 向いあって箸を取り上げて揃って唱和する。
「いただきます」
 揃って茄子のみそ汁の椀を手にとって一口啜る。満足げに口角を引き上げた理一をちらりと見やって佐久間はこっそりと笑った。
 こうして理一と一緒に食事をするようになって気付いたことがある。
 理一は案外みそ汁の味にうるさい。口に出して言う訳ではないが、気に入った味の時にはいきなりみそ汁を平らげてしまうこともある。
「みそ汁って…」
 そして、ことりと首を傾げて言うのだ。
「おかわり、ありますよ」
 そう言えばにこりと嬉しそうに笑う。
 差し出された椀を受け取って佐久間は席を立った。キッチンへと入り、鍋の蓋を開ける。
 理一のこんな癖を知ってから、いつもみそ汁は多めに作るようになってしまった。最初の頃こそ、理一の味の好みが解らずに作りすぎてしまうこともあったけれど、今では思惑通りに理一の「おかわり」を引き出すことに成功している。
 椀にみそ汁をよそって蓋をしめて、佐久間は一つ息を吐いた。
 理一が、いずれ自分が去って行くと思っていることは知っている。何度となく本人の口からも聞いた。でも、と佐久間は思う。
──そう簡単にあんたの思惑通りになんかしてやるもんか。
 こうして、佐久間の料理に慣れ親しんでしまえばいいのだ。佐久間の作る料理でないと満足しないようになってしまえばいい。そうしたらもう、理一は佐久間を手放すことはできなくなる。人間にとって、胃袋は存外偉大なのだ。先人も言っているではないか。「男は胃袋を掴まれたら逃げられない」と。
 そうして逃げ道を塞いで行って年を重ねて。そして今際の際に言わせてやるのだ。
「佐久間くんのお陰で満足な一生だった」
 ふんと鼻息荒く佐久間は拳を握る。
──だから、いい加減腹括れってんだ、このおっさんめ。





8月21日 23:38
おやすみなさい


 風呂を使った理一は寝室のドアをそっと開けた。先に風呂を使った佐久間はすでにベッドに潜り込んでいる。サイドテーブルに置かれたライトが人の形に盛り上がった布団を照らしていた。それに小さく笑って理一は後ろ手に寝室のドアを閉めると、そっとベッドに歩み寄った。静かに眠る佐久間の枕元に腰を降ろして、少しだけ乱れた前髪をそっと指で梳く。
「……ち、さん?」
「ごめん、起こしちゃった?」
 小さく呟かれた己の名前に理一は口角を引き上げた。耳元に唇を寄せて言えば緩く首が振られる。もそりと身じろぎした佐久間が枕元に手をついた理一のパジャマの袖を掴んだ。
「あした、は? はやいんですか?」
「そんなに早くなくて大丈夫だよ」
 まるで子供のように拙い口調で言われて、理一はその手をとる。あやすように指先を握って言えば、佐久間はくふんと笑った。
「じゃ、いっしょに、ねましょ…?」
 夏休み中の佐久間は明日もこの家に入り浸るつもりなのだろう。夕食の後片付けをする理一に、ごく当たり前に「泊まって行く」と言った。
 理一の分のスペースを開けるべく、ずりずりと身体をずらした佐久間に理一は小さく笑った。布団に潜り込み、当然のように伸ばされた佐久間の手をとると、指を絡めて引き寄せる。その薄い背に腕を回して腕の中に閉じ込めた。
 ほっと一つ息をついた佐久間の顔を覗き込めば、満足げに口角を引き上げて笑みを浮かべていた。
「佐久間くん?」
 問うように名前を呼んだ理一の肩に額をすりつけて、佐久間は笑う。
「りいち、さん、あったかい、から…」
 すぅと深く息を吐いて眠りに落ちた佐久間に、理一は苦く笑う。
 理一は寝入った佐久間を起こさないようにそっと腕を伸ばした。サイドテーブルのライトを消すと再びその背に腕をまわす。
「…おやすみ、佐久間くん」
 額に一つ口づけを落として、目を閉じた。





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