Junk
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Loincloth  その後の話



 佐久間は洗濯終了の表示を確認するとドラム式洗濯機のドアをばくりと開けた。乾燥機がきっちりと仕事をしてくれたほかほかの洗濯物を両手に抱え、そのまま洗面所を出るとリビングへと向かう。
 ちらりと流した視線の先、きっちりと閉じた寝室のドアの向こうに人の気配は薄い。理一はまだぐっすりと寝入っているのだろう。
「よいしょ、と」
 南に面したリビングは大きくとられた窓から差し込む日差しのおかげで明るく温かい。毛足の長いラグを避けるようにして洗濯物を落とし、佐久間はその傍らに座り込んだ。

 理一からメールが来たのはもう『朝』と言って差し支えない時間だったようだ。『ようだ』というのは勿論、佐久間はメールの着信にも気付かずに爆睡していたからで。さらに言うなら、佐久間自身もまた昨夜遅くになって漸くゼミのレポート地獄から開放されて、久しぶりにきちんと布団で眠れたような状態だったわけで…。理一のメールに気付いたのは、睡眠欲を程よく満たして珍しくすっきりと目覚めた午前十時過ぎのことだった。
『今日、来られる?』
 久しぶりのメールには、それがもう既に限界であったのだろう簡潔すぎる文字が並んでいる。それを見つめて一瞬呆けた佐久間は、軽く溜息を吐くと苦く笑ってタッチパネルへと指を滑らせた。
『はい』
 そのただ一言だけを送り返し、佐久間は勢いよく布団を撥ね除けた。メールの送り主の家の溜まった洗濯物や空になっているであろう冷蔵庫を思い浮かべて苦く笑みを浮かべる。ここ数日は佐久間も理一の家に行けるような状態ではなかったから、もしかしたら冷蔵庫の中は空ではなく残った食材が悲惨な状態になっているかもしれない。まとめてゴミ袋に放り込んでしまえばいいかと、片付けの算段を脳内シミュレーションしつつ顔を洗い身支度を整える。いつものボディバックを引っ掴み、履き潰した感のあるスニーカーをつっかけて。佐久間が自宅を出たのは、メールを見てから僅かに十五分後のことだった。
 いつものように電車に乗りいつもの駅で降りていつもの道を歩く。少しだけ早足になっている自分に気付いて佐久間は苦く笑う。駅からの五分程の道を歩きマンションのエントランスに辿り着いた佐久間は、軽く上がった息を整えながらいつもの番号を入力して開いた自動ドアを潜った。エレベーターホールで目的階の番号を押し小さく息を吐く。ポケットに入れたままだった携帯を取り出して画面に指を滑らせ、そこに表示された文字に軽く目を見開いた。
 そういえば、今日は三月十五日だった。教授の研究室にかけられたカレンダーを毎日─睡眠不足故に半分朦朧とした状態でではあったけれど─見ていたはずなのに、締切までの日数確認だけで数字の持つ意味をすこーんと忘れていた。
「そっか…。昨日はホワイトデーだったんだ…」
 だから隣の研究室の連中が地味にダメージを受けていたのか、と納得する。徳用袋を「女子全員から」と渡されてもお返しは個別なのだから、理不尽だとぶつぶつ言っていた親友の姿を思い出して苦く笑う。
 先月のバレンタインデーの時には一応理一にチョコを渡したんだっけ、と思い出して佐久間は小さく口角を引き上げた。もちろん、渡せたのはバレンタインデー当日ではなく、次の週の週末という状態ではあったけれど。
 それでも渡したチョコは、貧乏学生を自認する佐久間にしてはそれなりに奮発したものだった。小さな粒が六個しか入っていないのに野口英世が四人近く財布から出ていったのには驚いたものだが。これを幾つも自分用に買ったりするというのだから、世の女性達がチョコにかける情熱というのは誠に恐ろしい。そう思いながら小洒落た紙袋に入れられた小さな箱を理一へと差し出した。
「別によかったのに…」
 そう言いながらも若干嬉しそうな理一に悪い気はしなかった。
「お返し、期待してて」
 そう言われて笑って頷いたが、まぁ無理だろうな、と携帯を待機モードに変えながら苦く笑う。佐久間はチンと軽い音を立てて到着を告げたエレベーターに乗り込んだ。僅かに重力がかかって四角い箱が上昇する。ドアに開いた小さな窓に流れる各階のエレベーターホールを、見るともなしに見ながら佐久間は小さく溜息を吐いた。
 日付が変わってすぐではなく、日が昇るような時間にメールを寄越した理一のことだ。長いこと音信不通であったことを考えるとお返しが用意できているとは思いがたい。むしろ、今日この時間に帰宅出来ただけでも御の字といった状況だろう。理一が無理矢理に仕事を片付けてきたことは容易に想像できる。軽い衝撃とともにドアが開いて、佐久間は慌てて一歩を踏み出した。
 見慣れた鉄紺のドアが並ぶ廊下を歩き、見慣れた部屋番号の前で足を止める。一瞬迷って、佐久間はポケットからキーホルダーを取り出した。革製のそれは去年の誕生日に、理一からこの部屋の合鍵付きでプレゼントされたものだ。佐久間は小さく笑って、銀色に光るちょと特殊な形の鍵を取り出し鍵穴に差し込む。軽い手応えとともに解錠されたドアをゆっくりと引いて、薄暗い室内へと滑り込んだ。
「お邪魔します〜」
 できるだけ小声でそう声をかけ履いて来たスニーカーを揃えて脱ぐ。そろりと一歩を踏み出した佐久間は、リビングへ続く廊下沿いにある洗面所を覗いて苦く笑った。
 洗濯機の前に置かれたランドリーボックスからは入り切らなくなった洗濯物が溢れている。クリーニングに出すからと、もう一つのボックスに分けて入れられているワイシャツも、いつもなら軽く畳んで入れてあるのにその余裕すらなかったようだ。皺くちゃになった状態で放り込まれていた。まだうっすらと湿気の残る風呂場のサッシを見るに、シャワーを浴びたところで力つきたのだろうと予測がついた。
 佐久間は洗濯機のドアを開けるとランドリーボックスの中身をその中に放り込んで行く。洗剤と柔軟剤を手早くセットし『洗濯・乾燥』ボタンを押した。洗濯機が仕事を開始したのを見届けて踵を返す。向かい側のドアをそっと開ければ、案の定、ベッドの上には人の形に盛り上がった山が見えた。そっと歩み寄り布団からはみ出た顔を覗き込む。
 理一はぐっすりと眠り込んでいた。目元にそれとはっきり分かるクマを見つけて小さく溜息を吐く。指を伸ばしかけて、佐久間は慌てて手を引っ込めた。気配に聡い理一のことだ。触ったら間違いなく目を覚ましてしまうだろう。睡眠時間が足りていないのは明白なのだから、自然に目を覚ますまではこのまま寝かせておかなければ。
 佐久間はそっと足音を殺して戸口へととって返すと、ゆっくりと音を立てないようにドアを閉めた。
 それから二時間程、佐久間は掃除に奔走した。
 元々物の少ない理一の部屋に散らかっている印象はない。しかし、家主の不在を裏付けるように、ダークブラウンのテレビボードにはほんの少し埃がかかっているし、部屋の隅にも埃の気配がある。
 掃除機をかけたら流石に煩いだろうと、佐久間はシートを装着したモップでリビングの床を拭いた。多少ざらついた感のあった床がすっきりしたのを確認してモップを片付けるとキッチンに入りシンクを覗く。理一にしては珍しく使ったままになっていたマグカップに小さく笑って、佐久間は袖を捲るとスポンジを手にとって蛇口をひねった。
 カップと数枚の皿を洗い水切り籠に伏せて手を拭いて。次は冷蔵庫かと、佐久間は意を決してドアを開けた。
 恐る恐る中を覗けば、青い点が表面に浮かんだパンが一枚と、同じく内側に青い点の見えるジャムの瓶が一個、冷蔵庫の中に鎮座していた。他には、賞味期限が五日前に切れたヨーグルトが一個と、同じく消費期限が三日前に切れた油揚げが何故か一枚入っていた。佐久間は苦笑いしながらそれらを広げたゴミ袋の中に放り込んで行く。開封済みの方の牛乳も賞味期限がぎりぎりアウトだった。もう一本、未開封の方はまだ大丈夫だろうと、佐久間は封の開いた方のパックだけをシンクに置いた。ドアのポケットに入っている卵は昨日が賞味期限だったようだが、これは今日中に火を通して食べてしまえば大丈夫だろうと、そのままにして佐久間はドアを閉じる。
 そうしてキッチンの片付けまでを済ませて一息吐いたところで、佐久間は洗面所から小さく音楽が聞こえるのに気付いた。洗濯機の動作終了の合図だと気付いて、佐久間は慌ててリビングのドアを開けると、洗面所へと足を向けた。

 佐久間は傍らの洗濯物を黙々と畳んでいく。タオルを畳み、インナーのTシャツを畳んだところで、伸ばした指が白い布に触れた。それが何かに思い至って佐久間は軽く目を座らせた。小さく溜息を吐いて紐に指を引っかけ、それをたぐり寄せる。ずるりと引き出したものを目の前にかざしてみれば、予測に違わず四角い布地がだらんと伸びた。
「…やっぱ、愛用してんだよなぁ、これ」
 思わず溜息と共に小さく呟いた佐久間の目の前にぶら下がっているのは、理一愛用の褌だった。
 理一は褌を愛用している。もちろん、普通のパンツも履く。だが、『国防に盆暮れなし』の言葉の通り、こうして頻繁に仕事に忙殺される理一が手持ちのパンツを全て使い切り途方にくれた時、その窮地を救ったのが褌だった。
 まぁ、要は大量にあるパンツ全てを履き切って着替えがなかった時に使用した褌が思ったよりも使用感良好だったというわけだ。以降、パンツのストックが無くなるごとに褌は増え続け現在に至っているらしい。
 その褌コレクション─本人は否定していたが、デパートで買った一点ものだとか、どこそこの有名な布地で作ったものだとかいう説明がすらすらと出てくるのだから、これはもう既にコレクションだろうと佐久間は思っている─の数は優に三十を越している。どれだけ家に寝に帰るだけの日々を過ごしているんだとか、そんなにあの組織は人手不足なのか等々、ツッコミを入れたいところは多々あるが、まぁ、国会中継なんぞを横目に見る限り予算不足であることには違いないのだろうな、と深い溜息を落としたものだ。どこの組織だって、一番金がかかっているのは人件費だ。それくらい、バイトの端くれとはいえ、一応会社組織に雇用されている佐久間にだって理解はできる。どこの組織だって、必要経費を極限まで削ったら次に削るのは人件費しかない。ただ、理解はできるが納得はできないだけで。
「第一、国防なんて重要な仕事の合間に睡眠不足と過労で突然死とかしたらどーすんだよ。なぁ…」
 などと、おそらく親友が聞いたら真意を違わず理解して「惚気乙」と返してくること請け合いな独り言をぶつぶつと呟きながら佐久間は手早く褌を畳む。それを傍らに置き、次の洗濯物に指を伸ばしてまた畳んで…ということを繰り返して、畳んでいない洗濯物の山が大分低くなった頃、背後でカタリと小さな音がした。
 理一が起きたのだろうか、と佐久間がリビングのドアを振り返るよりも先に、どかどかと大きな足音に続いて大きくドアが開く音がして。
「…ちょ?! 理一さん…!? ぎぶぎぶぎぶ!! 苦しい!!」
 背後から伸びてきた腕にぎゅうぎゅうと抱き込まれていた。身長差のままに軽く抱き上げられているのか、少しだけ尻が浮いている。首元に回った腕に遠慮の『え』の字もない力で締め付けられて、佐久間は慌ててその腕をばしばしと叩いた。このままの勢いで締められたら確実におちる、という危機感で思わず大きな声を上げる。
「あ、ごめん」
 慌てたように力を揺るめた理一に佐久間の尻がぺたりとラグに落ちた。息を吸えば途端に新鮮な酸素が喉を直撃して逆に咽せる。激しく咳き込みながら睨み上げれば、まだ緩く佐久間に腕を回したまま、少しだけ慌てた表情を浮かべた理一が顔を覗き込んで来ていた。
「ごめん、大丈夫?」
 背中をさすりながら言う理一に、佐久間は涙の滲んだ目で睨み上げながら小さく頷いた。まだ喉の奥は痛いし、掴まれていた腕も痛い。それでもなんとか咳を収めて顔を上げれば、理一はほっとしたような情けない笑みを浮かべた。それに笑みを返して、佐久間は軽く伸び上がるようにして理一に頬に唇で触れる。ぽとりとラグ落とした理一の腕に軽く触れて、佐久間は口角を引き上げた。
「おかえりなさい」
 目を見開いたまま固まった理一に、流石に「ほっぺにちゅー」は恥ずかしかったかと顔を俯ければ、再度背中に回った腕が容赦なく締め付けてくる。
「だ、から苦しいって…!!」
 さらに理一の堅い胸筋に押し付けられた鼻に眼鏡のパッドが食い込んで、そちらも痛い。慌てて背中をばしばしと叩けば少しだけ腕が緩んだ。
「ただいま」
 耳が拾った理一の声を脳が理解するよりも早く、今度はその口が理一のそれで塞がれる。
 肉厚の舌が口の中をねっとりと舐め上げていく。それにぞくぞくとした痺れが背中を駆け上がって、佐久間は肩を震わせた。背中を叩いていた腕の力が抜けてぽとりとラグに落ちる。その段になって漸く、理一は佐久間を開放した。
「たく、起きたと思ったらいきなりなんなんすか? 俺を殺す気ですか?」
 皺くちゃのパジャマのままリビングのソファに座った理一に、佐久間は怒り今だ収まらずといった風情で噛み付く。それに苦く笑みを返しながら、理一は佐久間の手渡したコーヒーのカップに口をつけた。自分の分のカップには辛うじて一本残った牛乳をだばだばと注ぎ、佐久間はその隣に腰を降ろす。
 せっかく畳んだ洗濯物は理一の襲撃のおかげですっかり皺くちゃになって辺りに散乱している。
「これ、理一さんが畳み直してくださいよ?」
 そう言ってそっぽを向けば理一は満面の笑みで一つ頷いた。
「うん。いや、なんかね…。洗濯物畳む佐久間くんがあんまり綺麗で可愛かったから…」
 我慢できなかったんだ、と恥ずかし気もなく続けた理一に、佐久間の方が顔を真っ赤に染めた。
 理一はいつもこうだ。佐久間に「可愛い」だとか「綺麗」だとか、あまつさえ「僕の天使」等と背中が痒くなるようなセリフを臆面もなく言い放つ。
「僕にはそう見えるってことだよ」
 そう言って、どれだけ佐久間が否定しても頑として主張を曲げない。この頃、漸く佐久間にもスルースキルが発動できるようになったが、突然言われると対処ができずにこうして赤面する羽目になる。
「あー…もうそれ以上言わなくていいです。とにかく、この洗濯物、ホントに片付けてくださいよ?」
 これ以上反論すると理一は「どこのポエマーだ?!」と叫びたくなるような寒いセリフを延々と吐き続ける。それは経験的に学んでいるので、佐久間は深々とした溜息と共に理一の言葉をぶった切ってラグの上に散らばる洗濯物へと視線を向けた。あぁ、せっかく畳んだのに…と溜息を吐きながら眉を寄せれば、理一の大きな手が髪をさらりと嬲っていく。そのままゆっくりと頭を撫でられて、佐久間は引き寄せられるままに皺のよったパジャマの肩に頬を寄せた。すり、と額を擦り付けゆっくりと目を閉じる。くふんと、満足げに息を吐いた佐久間に、頭上で理一が小さく笑った気配がした。ちらりと見上げれば理一も嬉しげに目を細めて佐久間の髪に頬を擦り付けている。それにさらに口角を引き上げて、佐久間は手に持った淡い色の液体を口に含んだ。
 暫くそうして寄り添っていたが、突然響いた理一の腹の音で淡い空気は霧散した。目を見開いて顔を上げればバツ悪げに視線を反らす理一がいる。その、微妙に羞恥を滲ませた顔に、佐久間は勢いよく吹き出した。
「コーヒーの前にメシですよね。なんか作ります?」
 そう声をかければ、理一は大きな掌で口元を覆ったまま小さく頷いた。
 辛うじて生き残っていた卵と刻んで冷凍保存されていたネギ、消費期限が明日に迫ったソーセージで手早く炒飯を作る。フライパンを木べらでかき混ぜる佐久間の傍らでは、着替えていつも通りの顔をした理一がフリーズドライの卵スープをカップに放り込み湯を注いでいる。佐久間は真剣な顔で湯を注ぐ理一に小さく笑って、大皿に炒飯を全部盛りつけ二人分の取り皿を出した。レンゲなどという物のないこの家ではカレースプーンが大活躍だ。大皿を手にダイニングテーブルへと足を向けた理一に続いて、取り皿とスプーンを手に佐久間はキッチンを出る。
 向かい合わせに座って二人揃ってぱんと手を合わせた。
「いただきます」
 二人揃ってそう唱和するのも随分と久しぶりのような気がする。そんなことを考えながらにへりと笑って炒飯をよそえば、取り皿を手渡された理一もまたにへりと締まりのない笑みを浮かべてみせた。
 空腹を満たして一息吐いて、リビングのソファに戻った理一は佐久間を膝に乗せた。抱き込んだ手を腹の前で緩く組み、時折髪に頬擦りをする。それにくすぐったげに目を細めて、佐久間も理一の首筋に顳顬を擦り付けた。
 特に会話を交わしてはいないが、決して気詰まりなわけでもない。ただ、穏やかで温かい空気に身をまかせて、佐久間は理一の体温を堪能する。
 ソファの座面に落としていた佐久間の指先を握り込んで軽く揺らしていた理一の手の動きがぴたりと止まった。何だろうと視線を上げれば、眉間に深く皺を刻んでいる。
「理一さん?」
 声を掛ければ、理一は一点を見ていた視線を佐久間に向けて情けなく眉を下げた。
「ごめん、佐久間くん。ちょっと待ってて」
 そう言って佐久間を膝から降ろすとリビングを出て行く。理一の背中を見送って佐久間は軽く首を傾げた。理一が流していた視線の先を見やって、あぁと小さく呟く。そこには飾り気の全くないカレンダーがかけられていた。予定を書き込めるようにと、メモ欄が大きくとってある実用一点張りのものだ。それを見て、今日が三月十五日で昨日がホワイトデーだったと気付いたらしい。
「別に謝んなくたっていいのに…」
 苦く笑って小さく呟いた佐久間の背後で再びドアの開く音がする。入って来た理一の手には四角い小さな箱が握られていた。どうやらそれを取りに寝室に行っていたようだ。
「用意してたのに、すっかり忘れてたよ」
 理一はそう言ってソファに座り、再び佐久間を膝に抱き上げる。腕に抱き込まれ、差し出された箱を受け取った佐久間は、見たことのないパッケージに軽く首を傾げた。少なくとも、佐久間は知らないメーカーの包み紙だし、封をしているシールにも見たことのないロゴマークがプリントされている。金色の箔押しが散らされたそれには重厚感も漂っている…ような気がする。
 軽く首を傾げて理一を見上げれば、笑ってその目が封を開けるように促してくる。
 佐久間は小さく頷いて箱を裏返す。封をしたシールの端に短く切り揃えた爪をなんとかひっかけて、ゆっくりと剥がす。慎重に、破かないように包み紙を剥がす佐久間に、理一が小さく吹き出した。それをきろりと睨み上げれば「失礼」と小さく謝罪される。
「破いちゃっていいのに」
 謝罪の言葉を呟いておきながら、まだ喉の奥で小さく笑いながら言う理一に佐久間は唇を尖らせる。
「だって、なんか…破いたら勿体ないなって…」
 小さく言い訳をしながら包み紙を剥がし箱を取り出す。黒地の独特な風合いの表面にシールと同じロゴが型押しされているその箱は、十五センチ四方で厚みが三センチ程だ。箱の底面までを覗いてみたが中身の説明や販売元などは表記されていない。
 まだ頭上で小さく笑い続ける理一とちらりと睨み見て、佐久間は箱を膝に乗せると両手でそっと開けた。…瞬間閉めた。暫くそのまま動けずに箱の表面を凝視する。軽く首を傾げて小さく息を吐くと、もう一度そろそろと箱の蓋を開けた。
 蓋を上げた姿勢のまま動きを止めて中身を凝視する。
 視線の先にあるのは、光沢のある綺麗な青色とオフホワイトの布地だった。所々に濃淡のあるそれは、角度によって色が変わって見える。これは何だろう? と首を傾げた佐久間の目は、布の端に張られたシールの文字を捉えた。ぎくりと、腕が変な風に揺れた。
「…理一さん」
 漸う絞り出した声は、若干震えていたような気がする。
「佐久間くんに似合う色を選んでみたんだ」
 少し照れたような理一の声に、「あぁ、このシールの文字は俺の読み間違いじゃないんだ…」とどこか遠いところに佐久間は思考を飛ばしかけて、慌てて引き戻した。
「…随分と光沢のある布ですけど、これ…」
 震える手で持っている箱の中身は、その震えに合わせて刻々と弾く光の形を変えている。
「うん、絹だね。手紡ぎだから糸の太さにばらつきがあるとか説明されたかな?」
「…そう、ですか」
 返事を返しながら、震える手で中敷の紙を取り去る。軽く触れた布地は確かにさらりと柔らかくしなやかで、品質の良さはよく分かった。分かったがしかし、なぜホワイトデーのお返しがこれなのか、という疑問は佐久間から去っていかない。震える指で青い布地を取り上げる。さらりと揺れた布が滑らかな光沢を放った。
「うん、お揃いで使えたらいいなと思って」
 にこりと笑った理一に、佐久間の中で何かがぶつりと切れた。布地を握り締めると勢い良く立ち上がる。振り返り、驚きに目を見開く理一を見下ろして引きつった口角を引き上げた。
「褌をホワイトデーのお返しに選ぶなんて人、聞いたことねぇっすよ!!」
 言いざま、佐久間は震える腕を振り上げると、握り締めた布地を理一に向かって投げつけた。


「日本褌協会のキャンペーンで『二月十四日はふんどしの日』っていうのがあったから、ホントはバレンタインデーに送りたかったんだけどさ」
「まだ言うか…!!」

 愛好家と非愛好家の間の溝は、深くて広い。




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